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ティェンタオの自由訳漢詩 2270

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 南宋23ー楊万里
     憫 農               農を憫む 

  稲雲不雨不多黄   稲雲(とううん)   雨ふらず  多くは黄(き)ならず
  蕎麦空花早着霜   蕎麦(きょうばく)  空(むな)しく花さきて  早(つと)に霜を着(ちゃく)す
  已分忍飢度残歳   已(すで)に分(ぶん)とす  飢えを忍んで残歳(ざんさい)を度(わた)るを
  更堪歳裏閏添長   更(さら)に堪(た)えんや  歳裏(さいり)  閏(うるう)の長きを添うるに

  ⊂訳⊃
          一面の稲穂も  雨が降らねば黄金色にはならず

          折角花をつけたのに  蕎麦は霜にやられてしまう

          飢えをこらえながら   歳末を過ごしているのに

          今年は閏年   ひと月多いのに堪えねばならぬ


 ⊂ものがたり⊃ 楊万里(ようばんり:1127ー1206)は吉州吉水(江西省吉安市)の人。建炎元年(1127)、南宋建国の年に生まれ、范成大より一歳の年少です。二十八歳で范成大と同年に進士に及第します。地方勤務のあと抗戦派の宰相張浚(ちょうしゅん)に迎えられて臨安府の教授になりますが、父の喪のために帰郷します。
 除服後、左遷や中央勤務、母の喪などで低迷し、淳煕十一年冬、召されて吏部員外郎から郎中にすすみます。枢密院検詳官蒹太子侍読のとき朱熹ら六十人の正士を推薦しました。淳煕十四年(1187)に秘書少監になりますが、天子の不興をこうむって帰郷します。光宗の即位によって秘書監に返り咲き、紹煕元年(1190)に煥章閣学士として金の賀正使の接伴役をつとめます。
 ついで実録検討官になりますが、上皇孝宗に嫌われて江東転運使に左遷され、建康(江蘇省南京市)に移ります。鉄券の施行に反対して廉州(江西省贛州市)の知県事を命じられますが受けず、祠官(恩給)を拝して帰郷します。やがて祠禄も返上して召しに応ぜず、寧宗の開禧二年(10206)になくなります。享年八十歳です。
 詩題「農を憫(あわれ)む」は農民の苦労を詠う社会詩です。孝宗の隆興二年(1164)に霊陵の県丞であった三十八歳のときの作品で、范成大と同じように詩を社会詩の本道にもどそうとしました。
 まずはじめの二句で稲や蕎麦が旱害や冷害にあって稔らないことを指摘します。そして後半二句で、飢えに堪えながら歳末をすごすのを「分」(甘んじて受ける)といいます。結句は楊万里の着目がうかがえる部分で、今年は「歳裏」(年内)に閏月があり、飢えに堪えなければならない日がひと月ながくなると詠うのです。

     ※ パソコンの空き領域をつくるため、「初唐」の三分の二ほどを削除しました。

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