南宋14ー范成大
催租行 效王建 催租行 王建に效う
輸租得鈔官更催 租(そ)を輸(いた)して鈔(しょう)を得たるに 官 更に催(うなが)す
踉蹌里正敲門来 踉蹌(ろうそう)として里正(りせい) 門を敲(たた)いて来たる
手持文書雑嗔喜 手に文書(ぶんしょ)を持(じ)して 嗔喜(しんき)を雑(まじ)う
我亦来営酔帰耳 我(われ)も亦 来たり営(いとな)み 酔帰(すいき)せんのみと
牀頭慳嚢大如拳 牀頭(しょうとう)の慳嚢(けんのう) 大いさ拳(こぶし)の如し
撲破正有三百銭 撲破(ぼくは)すれば正(まさ)に三百銭有り
不堪与君成一酔 君が与(ため)に一酔(いっすい)を成すに堪(た)えざるも
聊復償君草鞋費 聊(いささ)か復(ま)た 君が草鞋(そうあい)の費(ひ)を償(つぐな)わん
⊂訳⊃
税を納め受取りもあるのに 役人はさらに催促する
村長が千鳥足でやって来て わが家の戸をたたく
手には書類をもって 脅したりすかしたり
儂だって仕事なんだ 一杯飲まなきゃ帰れないよ
枕もとのへそくり壺 拳骨くらいの大きさを
叩き壊せば なかに三百銭
酔ってもらうには足りないが
草鞋代にはなるだろう
⊂ものがたり⊃ 南宋の官民には金に屈服した祖国の状態を不満とする思いが鬱積していました。紹興二十五年(1155)十月に秦檜(しんかい)が死ぬと、抗戦派の張浚(ちょうしゅん)が宰相になります。その背景には国際情勢の変化がありました。
紹興十九年(1149)、金の第三代皇帝煕宗(きそう)は海陵王完顔亮(ワンヤンりょう)に殺害され、皇帝に即位した完顔亮は都を上京会寧府(黒龍江省阿城県白城)から燕京(北京)に移します。
海陵王は中国全土を手中にする野心を抱いており、秦檜の死後、ひそかに南征の準備をはじめました。紹興三十一年(1161)九月、海陵王はみずから六十万の大軍をひきいて南下してきました。宋も檄文を発して臨戦態勢にはいり、長江の線に防衛線を布きます。
金軍との戦いは、采石磯(安徽省馬鞍市)と瓜州(江蘇省揚州市瓜洲)の二度にわたって行われました。宋軍は金軍の渡江を撃退しますが、渡江して反撃する力がありません。そのころ金の本国では海陵王に反対する勢力が完顔擁(ワンヤンよう)を擁立します。完顔擁こそのちに金第一の名君と称される世宗です。
海陵王は再度瓜州から渡江しようとしますが、その直前、部下の将軍に殺害されます。隆興元年(1163)、張浚は長江を渡って進撃し、淮水の北まで軍を進めます。しかし、世宗の軍に大敗し、張浚にかわって和平派の湯思退(とうしたい)が台頭してきます。世宗も海陵王の南征には反対でしたので和平交渉がはじまり、隆興二年(1163)、「隆興の和議」が固まります。この和約によって宋と金は以後四十年間の和平を保つことになります。
孝宗の乾道年間(1126ー1173)とつづく淳煕年間(1174ー1188)の二十四年間は、南宋がもっとも安定した時期です。この時期に活躍する詩人陸游・范成大(はんせいだい)・楊万里・尤袤(ゆうぼう)を南宋の四大家といいます。うち陸游については別に生涯を扱った伝(8月30日のブログ号外を参照)を書いていますので省略し、ここでは范成大と楊万里と尤袤の三人を取り上げます。
范成大(1126ー1193)は平江呉県(江蘇省蘇州市)の人。汴梁陥落の前年に生まれ、陸游よりも一歳の年少です。十代のときに両親を亡くし、苦学して高宗の紹興二十四年(1154)、二十九歳で進士に及第します。戸曹監和済局に流入し、著作郎から吏部郎官になりますが、ここで一度退官します。
ほどなく処州(浙江省)の知州事にかえりざき、業績が認められて中央に召され、礼部員外郎兼崇政殿大学士になり、刑法・監法・馬政の改良などをおこないます。一時蜀に出て軍政に携わりますが、孝宗の乾道六年(1170)閏五月、国信使に任ぜられて金へ赴きます。和約後の諸問題を協議して堂々とした振る舞いをおこない名をあげます。
十月に帰国して中書舎人になり、ついで乾道八年(1172)には経略按撫使蒹副知静江府に任じられました。十二月になって呉県をたち、翌年三月十日に静江府(広西壮族自治区桂林市)に着任。翌淳煕元年(1174)には中央にもどり敷文閣待制になりますが、すぐに知成都符兼西川制置使に任じられます。淳煕二年六月に成都に着任し、友人の陸游を幕下に用いました。
二年後の淳煕四年(1177)十月、都にもどって権吏部尚書になります。翌年四月には参知政事(副首相)にすすみますが、六月には免職になって二度目の退官をします。まだ五十三歳の若さでした。そのご明州(浙江省寧波市)の知州事になり、中央にもどって端明殿学士になりますが、淳煕十二年(1185)、六十歳のときに病気を理由に隠退して恩給生活にはいります。郷里の石湖で八年をすごし、光宗の紹煕四年(1193)九月に亡くなりました。享年六十八歳です。
詩題の「催租行」(さいそこう)は税金催促の歌の意味です。副題に「王建(おうけん)に效(なら)う」とあります。王建は中唐の詩人で韓愈の門下でした。「海人の謠」など納税の苛酷を詠って政府を批判しました。
詩は進士に及第するまえかその直後、若いころの作品とみられ、江西詩派の軟弱な詩風にあきたらず士大夫(したいふ)の志を示します。納税者(農民)の視点から会話をまじえて詠い、白居易の諷諭詩にならって社会詩の本道にもどろうとする気概がみられます。
首聯は序で、千鳥足の「里正」(村長)がきて門をたたきます。「鈔」は文書の写しで、納税の受領書でしょう。頷聯は里正のようすとその言葉。「嗔喜」は怒りと喜びで、脅したりすかしたりして税金を催促します。出せないというと、おれだって仕事で来ているんだ、一杯飲まなきゃ帰れないよと酒を求めます。
頷聯は里正の魂胆を見透かした百姓が、枕元の「慳嚢」(へそくり袋)、袋とありますが実際は素焼の壺で、それを叩き割ると三百銭がでてきました。尾聯は百姓の言葉で、酒代には足りないが草鞋(わらじ)代にはなるだろうといって里正を追いかえすのです。
催租行 效王建 催租行 王建に效う
輸租得鈔官更催 租(そ)を輸(いた)して鈔(しょう)を得たるに 官 更に催(うなが)す
踉蹌里正敲門来 踉蹌(ろうそう)として里正(りせい) 門を敲(たた)いて来たる
手持文書雑嗔喜 手に文書(ぶんしょ)を持(じ)して 嗔喜(しんき)を雑(まじ)う
我亦来営酔帰耳 我(われ)も亦 来たり営(いとな)み 酔帰(すいき)せんのみと
牀頭慳嚢大如拳 牀頭(しょうとう)の慳嚢(けんのう) 大いさ拳(こぶし)の如し
撲破正有三百銭 撲破(ぼくは)すれば正(まさ)に三百銭有り
不堪与君成一酔 君が与(ため)に一酔(いっすい)を成すに堪(た)えざるも
聊復償君草鞋費 聊(いささ)か復(ま)た 君が草鞋(そうあい)の費(ひ)を償(つぐな)わん
⊂訳⊃
税を納め受取りもあるのに 役人はさらに催促する
村長が千鳥足でやって来て わが家の戸をたたく
手には書類をもって 脅したりすかしたり
儂だって仕事なんだ 一杯飲まなきゃ帰れないよ
枕もとのへそくり壺 拳骨くらいの大きさを
叩き壊せば なかに三百銭
酔ってもらうには足りないが
草鞋代にはなるだろう
⊂ものがたり⊃ 南宋の官民には金に屈服した祖国の状態を不満とする思いが鬱積していました。紹興二十五年(1155)十月に秦檜(しんかい)が死ぬと、抗戦派の張浚(ちょうしゅん)が宰相になります。その背景には国際情勢の変化がありました。
紹興十九年(1149)、金の第三代皇帝煕宗(きそう)は海陵王完顔亮(ワンヤンりょう)に殺害され、皇帝に即位した完顔亮は都を上京会寧府(黒龍江省阿城県白城)から燕京(北京)に移します。
海陵王は中国全土を手中にする野心を抱いており、秦檜の死後、ひそかに南征の準備をはじめました。紹興三十一年(1161)九月、海陵王はみずから六十万の大軍をひきいて南下してきました。宋も檄文を発して臨戦態勢にはいり、長江の線に防衛線を布きます。
金軍との戦いは、采石磯(安徽省馬鞍市)と瓜州(江蘇省揚州市瓜洲)の二度にわたって行われました。宋軍は金軍の渡江を撃退しますが、渡江して反撃する力がありません。そのころ金の本国では海陵王に反対する勢力が完顔擁(ワンヤンよう)を擁立します。完顔擁こそのちに金第一の名君と称される世宗です。
海陵王は再度瓜州から渡江しようとしますが、その直前、部下の将軍に殺害されます。隆興元年(1163)、張浚は長江を渡って進撃し、淮水の北まで軍を進めます。しかし、世宗の軍に大敗し、張浚にかわって和平派の湯思退(とうしたい)が台頭してきます。世宗も海陵王の南征には反対でしたので和平交渉がはじまり、隆興二年(1163)、「隆興の和議」が固まります。この和約によって宋と金は以後四十年間の和平を保つことになります。
孝宗の乾道年間(1126ー1173)とつづく淳煕年間(1174ー1188)の二十四年間は、南宋がもっとも安定した時期です。この時期に活躍する詩人陸游・范成大(はんせいだい)・楊万里・尤袤(ゆうぼう)を南宋の四大家といいます。うち陸游については別に生涯を扱った伝(8月30日のブログ号外を参照)を書いていますので省略し、ここでは范成大と楊万里と尤袤の三人を取り上げます。
范成大(1126ー1193)は平江呉県(江蘇省蘇州市)の人。汴梁陥落の前年に生まれ、陸游よりも一歳の年少です。十代のときに両親を亡くし、苦学して高宗の紹興二十四年(1154)、二十九歳で進士に及第します。戸曹監和済局に流入し、著作郎から吏部郎官になりますが、ここで一度退官します。
ほどなく処州(浙江省)の知州事にかえりざき、業績が認められて中央に召され、礼部員外郎兼崇政殿大学士になり、刑法・監法・馬政の改良などをおこないます。一時蜀に出て軍政に携わりますが、孝宗の乾道六年(1170)閏五月、国信使に任ぜられて金へ赴きます。和約後の諸問題を協議して堂々とした振る舞いをおこない名をあげます。
十月に帰国して中書舎人になり、ついで乾道八年(1172)には経略按撫使蒹副知静江府に任じられました。十二月になって呉県をたち、翌年三月十日に静江府(広西壮族自治区桂林市)に着任。翌淳煕元年(1174)には中央にもどり敷文閣待制になりますが、すぐに知成都符兼西川制置使に任じられます。淳煕二年六月に成都に着任し、友人の陸游を幕下に用いました。
二年後の淳煕四年(1177)十月、都にもどって権吏部尚書になります。翌年四月には参知政事(副首相)にすすみますが、六月には免職になって二度目の退官をします。まだ五十三歳の若さでした。そのご明州(浙江省寧波市)の知州事になり、中央にもどって端明殿学士になりますが、淳煕十二年(1185)、六十歳のときに病気を理由に隠退して恩給生活にはいります。郷里の石湖で八年をすごし、光宗の紹煕四年(1193)九月に亡くなりました。享年六十八歳です。
詩題の「催租行」(さいそこう)は税金催促の歌の意味です。副題に「王建(おうけん)に效(なら)う」とあります。王建は中唐の詩人で韓愈の門下でした。「海人の謠」など納税の苛酷を詠って政府を批判しました。
詩は進士に及第するまえかその直後、若いころの作品とみられ、江西詩派の軟弱な詩風にあきたらず士大夫(したいふ)の志を示します。納税者(農民)の視点から会話をまじえて詠い、白居易の諷諭詩にならって社会詩の本道にもどろうとする気概がみられます。
首聯は序で、千鳥足の「里正」(村長)がきて門をたたきます。「鈔」は文書の写しで、納税の受領書でしょう。頷聯は里正のようすとその言葉。「嗔喜」は怒りと喜びで、脅したりすかしたりして税金を催促します。出せないというと、おれだって仕事で来ているんだ、一杯飲まなきゃ帰れないよと酒を求めます。
頷聯は里正の魂胆を見透かした百姓が、枕元の「慳嚢」(へそくり袋)、袋とありますが実際は素焼の壺で、それを叩き割ると三百銭がでてきました。尾聯は百姓の言葉で、酒代には足りないが草鞋(わらじ)代にはなるだろうといって里正を追いかえすのです。