南宋12ー岳飛
満江紅 登 満江紅 黄鶴楼
黄鶴楼有感 に登りて感有り (上片八句)
遥望中原 遥かに中原(ちゅうげん)を望めば
荒煙外 許多城郭 荒煙(こうえん)の外に 許多(あまた)の城郭あり
想当年 花遮柳護 想う 当年 花遮(さえぎ)りて 柳護(まも)る
鳳楼龍閣 鳳楼(ほうろう)龍閣(りゅうかく)ありしを
万歳山前珠翠繞 万歳山前(ばんざいさんぜん) 珠翠(しゅすい)繞(めぐ)り
蓬壺殿裏笙歌作 蓬壺殿裏(ほうこでんり) 笙歌(しょうか)作(おこ)る
到而今 鉄騎満郊畿 而今(じこん)に到り 鉄騎(てつき) 郊畿(こうき)に満ち
風塵悪 風塵(ふうじん)悪(わろ)し
⊂訳⊃
遥かに中原を望めば
乱れた靄のむこうに 多くの街がある
思えば昔 花は視界をさえぎり
柳は豪華な宮殿を守っていた
万歳山の前には 美女たちが練り歩き
蓬壺殿の中では 笛の音や歌声が湧きおこる
ところがいまは 都の近くに騎馬があふれ
憂慮すべき事態である
⊂ものがたり⊃ 南宋の時代になると、詞は広く知識人のたしなむ文芸になり、閨怨詩だけではなく、戦場でも詠われる歌になっていました。抗戦の英雄岳飛(がくひ)にも詞作品があります。
岳飛(1103ー1141)は相州湯陰(河南省湯陰県)の人。農家の出身で、北宋末、十九歳のときに祖国防衛の義勇軍に参加しました。金軍との戦いや地方の反乱の平定に従事して頭角をあらわし、南宋の初期には湖北の義勇軍の指導者になりました。
功績を認められて各鎮の節度使や宣撫副使になり、枢密副使にすすみますが、終始、金との和平に反対したため講和派の秦檜と対立します。獄に投ぜられて服毒自殺を命ぜられ、高宗の紹興十一年(1141)に獄中でなくなります。享年三十九歳の若さでした。
詩題は曲名の「満江紅」(まんこうこう)に加えて作詞の場所が注記されています。戦況からして岳飛が在野の義勇軍の将であった紹興四年(1134)ごろ、金軍を討って武昌(湖南省武漢市武昌区)に帰ってきたときの作品でしょう。「黄鶴楼」(こうかくろう)は武昌の西南隅、長江をみおろす黄鶴磯のうえにあり、唐代からの有名な詩跡でした。
上片は中四句を前後の各二句で囲む形式になっており、はじめの二句で北の中原には多くの街がまだ金軍の占領下にあると詠います。中四句は都汴京のかつての姿を詠うもので、「柳護る」は岸辺に柳の生えている堀が「鳳楼龍閣」(豪華な宮殿)をめぐって護っていたと解されます。「万歳山」は徽宗が宮中の庭につくった巨大な築山で、繁栄の象徴でした。
山のまえには「珠翠」(首飾りや簪をつけた美女)が練り歩き、「蓬壺殿」(宮中の宴会場)では笛の音や歌声が湧き起こっていたと、繁栄していた都のさまを描きます。結びの二句は現状で、「風塵」は空気と解され、嫌悪咸もしくは憂慮の表現でしょう。
満江紅 登 満江紅 黄鶴楼
黄鶴楼有感 に登りて感有り (上片八句)
遥望中原 遥かに中原(ちゅうげん)を望めば
荒煙外 許多城郭 荒煙(こうえん)の外に 許多(あまた)の城郭あり
想当年 花遮柳護 想う 当年 花遮(さえぎ)りて 柳護(まも)る
鳳楼龍閣 鳳楼(ほうろう)龍閣(りゅうかく)ありしを
万歳山前珠翠繞 万歳山前(ばんざいさんぜん) 珠翠(しゅすい)繞(めぐ)り
蓬壺殿裏笙歌作 蓬壺殿裏(ほうこでんり) 笙歌(しょうか)作(おこ)る
到而今 鉄騎満郊畿 而今(じこん)に到り 鉄騎(てつき) 郊畿(こうき)に満ち
風塵悪 風塵(ふうじん)悪(わろ)し
⊂訳⊃
遥かに中原を望めば
乱れた靄のむこうに 多くの街がある
思えば昔 花は視界をさえぎり
柳は豪華な宮殿を守っていた
万歳山の前には 美女たちが練り歩き
蓬壺殿の中では 笛の音や歌声が湧きおこる
ところがいまは 都の近くに騎馬があふれ
憂慮すべき事態である
⊂ものがたり⊃ 南宋の時代になると、詞は広く知識人のたしなむ文芸になり、閨怨詩だけではなく、戦場でも詠われる歌になっていました。抗戦の英雄岳飛(がくひ)にも詞作品があります。
岳飛(1103ー1141)は相州湯陰(河南省湯陰県)の人。農家の出身で、北宋末、十九歳のときに祖国防衛の義勇軍に参加しました。金軍との戦いや地方の反乱の平定に従事して頭角をあらわし、南宋の初期には湖北の義勇軍の指導者になりました。
功績を認められて各鎮の節度使や宣撫副使になり、枢密副使にすすみますが、終始、金との和平に反対したため講和派の秦檜と対立します。獄に投ぜられて服毒自殺を命ぜられ、高宗の紹興十一年(1141)に獄中でなくなります。享年三十九歳の若さでした。
詩題は曲名の「満江紅」(まんこうこう)に加えて作詞の場所が注記されています。戦況からして岳飛が在野の義勇軍の将であった紹興四年(1134)ごろ、金軍を討って武昌(湖南省武漢市武昌区)に帰ってきたときの作品でしょう。「黄鶴楼」(こうかくろう)は武昌の西南隅、長江をみおろす黄鶴磯のうえにあり、唐代からの有名な詩跡でした。
上片は中四句を前後の各二句で囲む形式になっており、はじめの二句で北の中原には多くの街がまだ金軍の占領下にあると詠います。中四句は都汴京のかつての姿を詠うもので、「柳護る」は岸辺に柳の生えている堀が「鳳楼龍閣」(豪華な宮殿)をめぐって護っていたと解されます。「万歳山」は徽宗が宮中の庭につくった巨大な築山で、繁栄の象徴でした。
山のまえには「珠翠」(首飾りや簪をつけた美女)が練り歩き、「蓬壺殿」(宮中の宴会場)では笛の音や歌声が湧き起こっていたと、繁栄していた都のさまを描きます。結びの二句は現状で、「風塵」は空気と解され、嫌悪咸もしくは憂慮の表現でしょう。