南宋8ー李清照
如夢令 如夢令
昨夜雨疏風驟 昨夜(さくや) 雨疏(まば)らに 風驟(にわ)かなり
濃睡不消残洒 濃睡(のうすい) 残洒(ざんしゅ)を消さず
試問巻簾人 試(こころ)みに 簾(すだれ)を巻く人に問えば
却道海棠依旧 却(かえ)って道(い)う 海棠(かいどう)は旧に依(よ)ると
知否 知るや否や
知否 知るや否や
応是緑肥紅痩 応(まさ)に是(こ)れ 緑肥え 紅(くれない) 痩(や)せたるべし
⊂訳⊃
昨夜は雨が ぱらぱらと降って急な風
ぐっすり眠ったが 酔いはまだ残っている
簾を巻き上げにきた侍女に尋ねると
海棠の花に 異常はありませんという
そうかしら
そうかしら
緑だけが多くなり 紅の花は散ったであろう
⊂ものがたり⊃ 李清照(りせいしょう:1084ー1151?)は済南(山東省済南市)の人。呂本中と同じ年に学者の家に生まれました。十八歳のとき、学者の趙明誠(ちょうめいせい)と結婚し、夫に協力して石碑・書画・奇器の蒐集研究に従事しました。
四十三歳のとき金の侵攻に遭遇、難を避けて夫とともに江南に移ります。しかし、ほどなく夫は急病でなくなり、持ってきた家蔵の品を売りながら暮らす生活におちいります。その詞には国破れて家滅びる悲惨な心情がにじみでており、中国史上最高の閨秀作家と称されています。しかし、その最後は不明のままで、高宗の紹興二十一年(1151)ころに亡くなったと推定されています。享年六十八歳くらいです。
詞「如夢令」(じょぼうれい)は結婚前、娘時代の作とみられ、発想が孟浩然の「春暁」(盛唐53、2014.5.7のブログ参照)「夜来 風雨の声 花落つること知るや多少ぞ」に似ているのは江西詩派の影響でしょう。孟浩然の詩が自問自答であるのに対して、ここでは侍女との対話があり、いかにも良家の子女らしいゆったりした雰囲気があります。
如夢令 如夢令
昨夜雨疏風驟 昨夜(さくや) 雨疏(まば)らに 風驟(にわ)かなり
濃睡不消残洒 濃睡(のうすい) 残洒(ざんしゅ)を消さず
試問巻簾人 試(こころ)みに 簾(すだれ)を巻く人に問えば
却道海棠依旧 却(かえ)って道(い)う 海棠(かいどう)は旧に依(よ)ると
知否 知るや否や
知否 知るや否や
応是緑肥紅痩 応(まさ)に是(こ)れ 緑肥え 紅(くれない) 痩(や)せたるべし
⊂訳⊃
昨夜は雨が ぱらぱらと降って急な風
ぐっすり眠ったが 酔いはまだ残っている
簾を巻き上げにきた侍女に尋ねると
海棠の花に 異常はありませんという
そうかしら
そうかしら
緑だけが多くなり 紅の花は散ったであろう
⊂ものがたり⊃ 李清照(りせいしょう:1084ー1151?)は済南(山東省済南市)の人。呂本中と同じ年に学者の家に生まれました。十八歳のとき、学者の趙明誠(ちょうめいせい)と結婚し、夫に協力して石碑・書画・奇器の蒐集研究に従事しました。
四十三歳のとき金の侵攻に遭遇、難を避けて夫とともに江南に移ります。しかし、ほどなく夫は急病でなくなり、持ってきた家蔵の品を売りながら暮らす生活におちいります。その詞には国破れて家滅びる悲惨な心情がにじみでており、中国史上最高の閨秀作家と称されています。しかし、その最後は不明のままで、高宗の紹興二十一年(1151)ころに亡くなったと推定されています。享年六十八歳くらいです。
詞「如夢令」(じょぼうれい)は結婚前、娘時代の作とみられ、発想が孟浩然の「春暁」(盛唐53、2014.5.7のブログ参照)「夜来 風雨の声 花落つること知るや多少ぞ」に似ているのは江西詩派の影響でしょう。孟浩然の詩が自問自答であるのに対して、ここでは侍女との対話があり、いかにも良家の子女らしいゆったりした雰囲気があります。