南宋7ー呂本中
兵乱後雑詩 兵乱後 雑詩
蝸舎嗟蕪没 蝸舎(かしゃ) 蕪没(ぶぼつ)を嗟(なげ)く
孤城乱定初 孤城(こじょう) 乱(らん)定まるの初め
籬根留敝屨 籬根(りこん)には 敝屨(へいく)を留(とど)め
屋角得残書 屋角(おくかく)には 残書(ざんしょ)を得たり
雲路慚高鳥 雲路(うんろ) 高鳥(こうちょう)に慚(は)じ
淵潜羨巨魚 淵潜(えんせん) 巨魚(きょぎょ)を羨(うらや)む
客来缺佳致 客(かく)来たりて 佳致(かち)を缺(か)き
親為摘山蔬 親(みずか)ら為に 山蔬(さんそ)を摘(つ)む
⊂訳⊃
なんとわが家は 雑草に蔽いつくされている
乱が収まり やっと故郷にもどってきたのに
垣の根元に 靴は投げ棄てられ
家の隅には 残された書物が散らばる
雲間を飛ぶ 鳥にも劣る逃げ方だった
淵の巨魚を 羨むほどに慌てていた
いまは客が来ても もてなす物もなく
山野に菜を摘んで 食べるありさまだ
⊂ものがたり⊃ 呂本中(りょほんちゅう:1084ー1138)は寧州(安徽省)の人。もとの名は大中(だいちゅう)です。北宋の宰相呂公著(りょこうちょ)の曾孫で、学問の家に育ちました。若いころから黄庭堅の詩に学び、詩名を謳われました。恩蔭で承務郎になり、四十三歳のとき首都の陥落に遭遇します。一時避難したあと自宅にもどりますが、南渡して高宗の紹興年間のはじめに進士の資格をあたえられて中書舎人になります。
しかし、抗戦派の趙鼎(ちょうてい)と親しかったため講和派の秦檜(しんかい)に弾劾され、太平観提挙(恩給)を拝して隠退します。「江西詩社宗派図」を著して江西詩派の詩統を明らかにしました。紹興八年(1138)、陳与義と同じ年に亡くなり、享年五十五歳です。
詩題の「兵乱」は金軍の侵入、「靖康の変」をさします。乱をさけて避難したあと、建炎二年(1128)に寿州(安徽省寿県)の自宅にもどってきたときの作、ときに四十五歳でした。首聯の「蝸舎」は蝸牛の殻、わが家を謙遜していうもので「蕪」(雑草)に蔽いつくされていました。「孤城」は敵中に取り残された城(街)といった感じの語で、故郷を示します。
頷聯の対句では乱された家のようすを描き、頚聯の対句では避難のときの慌てたようすを空飛ぶ鳥や淵の魚とくらべて歎きます。尾聯の「客」は見舞いにきた者のことでしょう。見舞客にだす食べ物もなく、山野の菜を自分で摘んできて食べるありさまでした。
兵乱後雑詩 兵乱後 雑詩
蝸舎嗟蕪没 蝸舎(かしゃ) 蕪没(ぶぼつ)を嗟(なげ)く
孤城乱定初 孤城(こじょう) 乱(らん)定まるの初め
籬根留敝屨 籬根(りこん)には 敝屨(へいく)を留(とど)め
屋角得残書 屋角(おくかく)には 残書(ざんしょ)を得たり
雲路慚高鳥 雲路(うんろ) 高鳥(こうちょう)に慚(は)じ
淵潜羨巨魚 淵潜(えんせん) 巨魚(きょぎょ)を羨(うらや)む
客来缺佳致 客(かく)来たりて 佳致(かち)を缺(か)き
親為摘山蔬 親(みずか)ら為に 山蔬(さんそ)を摘(つ)む
⊂訳⊃
なんとわが家は 雑草に蔽いつくされている
乱が収まり やっと故郷にもどってきたのに
垣の根元に 靴は投げ棄てられ
家の隅には 残された書物が散らばる
雲間を飛ぶ 鳥にも劣る逃げ方だった
淵の巨魚を 羨むほどに慌てていた
いまは客が来ても もてなす物もなく
山野に菜を摘んで 食べるありさまだ
⊂ものがたり⊃ 呂本中(りょほんちゅう:1084ー1138)は寧州(安徽省)の人。もとの名は大中(だいちゅう)です。北宋の宰相呂公著(りょこうちょ)の曾孫で、学問の家に育ちました。若いころから黄庭堅の詩に学び、詩名を謳われました。恩蔭で承務郎になり、四十三歳のとき首都の陥落に遭遇します。一時避難したあと自宅にもどりますが、南渡して高宗の紹興年間のはじめに進士の資格をあたえられて中書舎人になります。
しかし、抗戦派の趙鼎(ちょうてい)と親しかったため講和派の秦檜(しんかい)に弾劾され、太平観提挙(恩給)を拝して隠退します。「江西詩社宗派図」を著して江西詩派の詩統を明らかにしました。紹興八年(1138)、陳与義と同じ年に亡くなり、享年五十五歳です。
詩題の「兵乱」は金軍の侵入、「靖康の変」をさします。乱をさけて避難したあと、建炎二年(1128)に寿州(安徽省寿県)の自宅にもどってきたときの作、ときに四十五歳でした。首聯の「蝸舎」は蝸牛の殻、わが家を謙遜していうもので「蕪」(雑草)に蔽いつくされていました。「孤城」は敵中に取り残された城(街)といった感じの語で、故郷を示します。
頷聯の対句では乱された家のようすを描き、頚聯の対句では避難のときの慌てたようすを空飛ぶ鳥や淵の魚とくらべて歎きます。尾聯の「客」は見舞いにきた者のことでしょう。見舞客にだす食べ物もなく、山野の菜を自分で摘んできて食べるありさまでした。