南宋1ー陳与義
襄邑道中 襄邑の道中
飛花両岸照船紅 飛花(ひか) 両岸に船を照らして紅(くれない)なり
百里楡堤半日風 百里の楡堤(ゆてい) 半日(はんにち)の風
臥看満天雲不動 臥(ふ)して看(み)る 満天(まんてん) 雲の動かざるを
不知雲与我倶東 知らず 雲 我れと倶(とも)に東(ひがし)するを
⊂訳⊃
左右の岸に花は散り 船を照らして紅に染める
百里もつづく楡の堤 風をはらんだ半日の旅
寝そべって 空を仰げば雲は動かずに止まっている
雲はなんと 船といっしょに東へと流れていた
⊂ものがたり⊃ 北宋の第八代皇帝徽宗(きそう)は風流天子と称され、自分で書画の筆をとり、政事よりは美術品の収集や庭園づくりに熱心でした。即位翌年の建中靖国元年(1101)に向太后が崩じて親政になると、徽宗は蔡京(さいきょう)を宰相に任じて政事をかえりみず、趣味の世界に専念するようになります。
「澶淵の盟」によって宋は百年の平和を維持し、都汴京は空前の繁栄を謳歌していました。その一方で地方の農民は重税にあえぐ状態でした。そのころ遼(りょう)の背後に女真(ジュセン)族が台頭し、完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)は女真族をまとめて遼の支配に叛旗をひるがえします。徽宗の政和五年(1115)正月、阿骨打は即位して国号を金(きん)と称します。
宋は金と協力して遼の支配下にあった燕雲十六州を取りもどそうとしますが、金の動きは早く、たちまち燕雲十六州を自力で攻略します。それをみた宋は今度は遼とはかって燕雲十六州から金の勢力を駆追しようとしました。その背信を知った金は宋の宣和七年(1125)十月、宋を討つことに決し、燕山と太原(山西省太原市)の二方面から南下してきました。
以下、北宋が南渡して南宋となる経緯については歴史書を参照してください。なお、ティェンタオの自由訳漢詩1451(陸游1:2012.9.1のブログ)には、すこし詳しく書いておきました。
徽宗の時代に活躍をはじめた詩人は宋の南渡を経験し、南宋の初代皇帝高宗の時代に江南で生きることになります。その代表は陳与義(ちんよぎ)で、ほかに呂本中などがいて、江西派に属します。詞もさかんに作られ、女流詩人の李清照があらわれます。
陳与義(1090ー1138)は汝州葉県(河南省臨汝県)の人。曽祖父のとき洛陽に移りましたので洛陽の人ともいいます。哲宗の元祐五年(1090)に生まれ、太学の上舎で学びました。徽宗の政和三年(1113)に二十四歳で進士に及第、太学博士から符宝郎になりますが、事に坐して陳留(河南省開封市の東南)の酒税官に左遷されます。
欽宗の靖康元年(1126)、三十七歳のとき首都汴京は金軍に包囲されて陥落。翌年三月に北宋は滅亡します。陳与義は難をさけて襄陽(湖北省襄樊市)へのがれ、漢陽(湖北省武漢市)に移り、洞庭湖畔を南へ五年余にわたって放浪しました。
一方、金軍は南宋の皇帝高宗を追及して建炎三年(1130)に長江を越えて南下、建康(江蘇省南京市)、臨安(浙江省杭州市)を攻め落とします。そうしたなか、各地の義軍は八年間にわたって抵抗をつづけ、金軍を江南から撤退させます。
紹興二年(1132)正月、高宗は臨安に居をもどし、陳与義は召されて兵部員外郎になります。昇進を重ねて参知政事(副首相)にいたりますが、紹興六年(1136)、病を理由に下野を願い出で、洞霄宮提挙(恩給)を拝して引退します。その二年後、紹興八年(1138)に亡くなりました。享年四十九歳です。
詩題の「道中」は船旅のことです。二十八歳のときの作とされており、「襄邑」(じょうゆう:河南省睢県)の付近を旅し、甲板に寝そべって春景色を眺めています。花びらが風に舞い散り、船を紅に照らしています。承句はまわりの状況を体言止めで描き、旅の動きをひろげる表現になっています。
後半の二句はそのときふと気づいたことで、空の雲が動かないと思っていたら、雲は乗っている船と同じ速さで東へ流れていました。雲は不吉な心境、逆境の喩えになりますので、岸の落花の華やかさと対比して、自分はこれからどこに連れ去られるのかといった不安な気持ちもただよっているようです。
襄邑道中 襄邑の道中
飛花両岸照船紅 飛花(ひか) 両岸に船を照らして紅(くれない)なり
百里楡堤半日風 百里の楡堤(ゆてい) 半日(はんにち)の風
臥看満天雲不動 臥(ふ)して看(み)る 満天(まんてん) 雲の動かざるを
不知雲与我倶東 知らず 雲 我れと倶(とも)に東(ひがし)するを
⊂訳⊃
左右の岸に花は散り 船を照らして紅に染める
百里もつづく楡の堤 風をはらんだ半日の旅
寝そべって 空を仰げば雲は動かずに止まっている
雲はなんと 船といっしょに東へと流れていた
⊂ものがたり⊃ 北宋の第八代皇帝徽宗(きそう)は風流天子と称され、自分で書画の筆をとり、政事よりは美術品の収集や庭園づくりに熱心でした。即位翌年の建中靖国元年(1101)に向太后が崩じて親政になると、徽宗は蔡京(さいきょう)を宰相に任じて政事をかえりみず、趣味の世界に専念するようになります。
「澶淵の盟」によって宋は百年の平和を維持し、都汴京は空前の繁栄を謳歌していました。その一方で地方の農民は重税にあえぐ状態でした。そのころ遼(りょう)の背後に女真(ジュセン)族が台頭し、完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)は女真族をまとめて遼の支配に叛旗をひるがえします。徽宗の政和五年(1115)正月、阿骨打は即位して国号を金(きん)と称します。
宋は金と協力して遼の支配下にあった燕雲十六州を取りもどそうとしますが、金の動きは早く、たちまち燕雲十六州を自力で攻略します。それをみた宋は今度は遼とはかって燕雲十六州から金の勢力を駆追しようとしました。その背信を知った金は宋の宣和七年(1125)十月、宋を討つことに決し、燕山と太原(山西省太原市)の二方面から南下してきました。
以下、北宋が南渡して南宋となる経緯については歴史書を参照してください。なお、ティェンタオの自由訳漢詩1451(陸游1:2012.9.1のブログ)には、すこし詳しく書いておきました。
徽宗の時代に活躍をはじめた詩人は宋の南渡を経験し、南宋の初代皇帝高宗の時代に江南で生きることになります。その代表は陳与義(ちんよぎ)で、ほかに呂本中などがいて、江西派に属します。詞もさかんに作られ、女流詩人の李清照があらわれます。
陳与義(1090ー1138)は汝州葉県(河南省臨汝県)の人。曽祖父のとき洛陽に移りましたので洛陽の人ともいいます。哲宗の元祐五年(1090)に生まれ、太学の上舎で学びました。徽宗の政和三年(1113)に二十四歳で進士に及第、太学博士から符宝郎になりますが、事に坐して陳留(河南省開封市の東南)の酒税官に左遷されます。
欽宗の靖康元年(1126)、三十七歳のとき首都汴京は金軍に包囲されて陥落。翌年三月に北宋は滅亡します。陳与義は難をさけて襄陽(湖北省襄樊市)へのがれ、漢陽(湖北省武漢市)に移り、洞庭湖畔を南へ五年余にわたって放浪しました。
一方、金軍は南宋の皇帝高宗を追及して建炎三年(1130)に長江を越えて南下、建康(江蘇省南京市)、臨安(浙江省杭州市)を攻め落とします。そうしたなか、各地の義軍は八年間にわたって抵抗をつづけ、金軍を江南から撤退させます。
紹興二年(1132)正月、高宗は臨安に居をもどし、陳与義は召されて兵部員外郎になります。昇進を重ねて参知政事(副首相)にいたりますが、紹興六年(1136)、病を理由に下野を願い出で、洞霄宮提挙(恩給)を拝して引退します。その二年後、紹興八年(1138)に亡くなりました。享年四十九歳です。
詩題の「道中」は船旅のことです。二十八歳のときの作とされており、「襄邑」(じょうゆう:河南省睢県)の付近を旅し、甲板に寝そべって春景色を眺めています。花びらが風に舞い散り、船を紅に照らしています。承句はまわりの状況を体言止めで描き、旅の動きをひろげる表現になっています。
後半の二句はそのときふと気づいたことで、空の雲が動かないと思っていたら、雲は乗っている船と同じ速さで東へ流れていました。雲は不吉な心境、逆境の喩えになりますので、岸の落花の華やかさと対比して、自分はこれからどこに連れ去られるのかといった不安な気持ちもただよっているようです。