北宋71ー陳師道
春懐示鄰里 春懐 隣里に示す
断牆着雨蝸成字 断牆(だんしょう) 雨を着(ちゃく)して 蝸(か) 字(じ)を成し
老屋無僧燕作家 老屋(ろうおく) 僧(そう)無くして 燕(つばめ) 家を作(な)す
剰欲出門追語笑 剰(すこぶ)る門を出でて語笑(ごしょう)を追わんと欲するも
却嫌帰鬢逐塵沙 却(かえ)って帰鬢(きびん)に 塵沙(じんさ)を逐(お)わんことを嫌(きら)う
風翻蛛網開三面 風は蛛網(しゅもう)を翻して三面(さんめん)を開き
雷動蜂窠趁両衙 雷(いかずち)は蜂窠(ほうか)を動かして両衙(りょうが)を趁(お)う
屢失南鄰春事約 屢々(しばしば)南隣(なんりん)の春事(しゅんじ)の約を失(たが)え
只今容有未開花 只今 容(あ)に未(いま)だ開かざる花(はな)有らんや
⊂訳⊃
壊れた塀は雨の染みだらけ 蝸牛が文字をかいている
住んでいるのは僧ではなく 軒に燕が巣くっている
門を出て 語り合いたいのはやまやまだが
鬢の毛を よごして帰るのがいやなのだ
風が吹いて 蜘蛛の巣は三方がやぶれ
雷が鳴れば 蜂の巣は揺れて蜂は慌てる
ご近所の春のお誘いにも 失礼つづきだが
今となっては これから咲く花などないでしょう
⊂ものがたり⊃ 詩題の「隣里」(りんり)は村里の隣人の意味で、近所の人に春の感懐を示す詩の形になっていますが、春は官吏の任官の時期でもあります。元符二年(1099)四十七歳のとき、徐州での作とされており、秘書省正字になったあと故郷に帰ったのでしょう。
首聯でまず自宅のようすを描きます。「断牆」は壊れた土塀、「雨を着して」は雨粒の落ちた痕が点々と濡れているさまで、ぱらぱらと降った雨でしょう。「蝸 字を成し」は蝸牛が這った跡が草書の字のようにみえたということで、自分の学問の拙さを喩えたという見方もできます。「老屋 僧無くして」は古びた家には托鉢の僧侶も立ち寄らないとする解釈もありますが、ここでは僧侶が住んでいるわけではないという解釈によりました。
頷聯は隣人への言い訳で、誘いを受けて皆さんの談笑に加わりたかったが、「帰鬢に 塵沙を逐わんことを嫌う」といいます。家に帰ったとき鬢に砂埃がついてくるのが嫌で門を出なかったというのです。取りようによっては相手に失礼な言い方になりますが、官界で汚れることを諷していると考えるべきでしょう。
頚聯は「塵沙」の説明と解することができ、世の中の小人を蜘蛛や蜂に喩えます。蜘蛛は風に吹き千切れられた巣を繕うのにてんてこ舞いをしており、蜂は雷の音に驚いて巣を出入りするのに大わらわであるといいます。「両衙を趁う」は当時の官吏が朝夕二回役所に出勤していたことを指し、それを蜜蜂が一日二回巣に出入りすることに喩えます。
尾聯は結びで、「春事の約」は春が役人の任官の時期であるので出仕の誘いをいうとみられます。「容」は豈と同じ意味の助字で、どうして……であろうか、そうではないという反語です。しばしばお誘いを断わってきましたが、いまとなってはまだ咲いている花、これから咲く花はあるでしょうか、ありませんねと結ぶのです。
詩題に「隣里に示す」とありますが、詩は気心の知れた友人に自分が官途につかない理由をしめしたもので、随所に自負と反俗の精神、詩魂の余裕がみてとれます。
春懐示鄰里 春懐 隣里に示す
断牆着雨蝸成字 断牆(だんしょう) 雨を着(ちゃく)して 蝸(か) 字(じ)を成し
老屋無僧燕作家 老屋(ろうおく) 僧(そう)無くして 燕(つばめ) 家を作(な)す
剰欲出門追語笑 剰(すこぶ)る門を出でて語笑(ごしょう)を追わんと欲するも
却嫌帰鬢逐塵沙 却(かえ)って帰鬢(きびん)に 塵沙(じんさ)を逐(お)わんことを嫌(きら)う
風翻蛛網開三面 風は蛛網(しゅもう)を翻して三面(さんめん)を開き
雷動蜂窠趁両衙 雷(いかずち)は蜂窠(ほうか)を動かして両衙(りょうが)を趁(お)う
屢失南鄰春事約 屢々(しばしば)南隣(なんりん)の春事(しゅんじ)の約を失(たが)え
只今容有未開花 只今 容(あ)に未(いま)だ開かざる花(はな)有らんや
⊂訳⊃
壊れた塀は雨の染みだらけ 蝸牛が文字をかいている
住んでいるのは僧ではなく 軒に燕が巣くっている
門を出て 語り合いたいのはやまやまだが
鬢の毛を よごして帰るのがいやなのだ
風が吹いて 蜘蛛の巣は三方がやぶれ
雷が鳴れば 蜂の巣は揺れて蜂は慌てる
ご近所の春のお誘いにも 失礼つづきだが
今となっては これから咲く花などないでしょう
⊂ものがたり⊃ 詩題の「隣里」(りんり)は村里の隣人の意味で、近所の人に春の感懐を示す詩の形になっていますが、春は官吏の任官の時期でもあります。元符二年(1099)四十七歳のとき、徐州での作とされており、秘書省正字になったあと故郷に帰ったのでしょう。
首聯でまず自宅のようすを描きます。「断牆」は壊れた土塀、「雨を着して」は雨粒の落ちた痕が点々と濡れているさまで、ぱらぱらと降った雨でしょう。「蝸 字を成し」は蝸牛が這った跡が草書の字のようにみえたということで、自分の学問の拙さを喩えたという見方もできます。「老屋 僧無くして」は古びた家には托鉢の僧侶も立ち寄らないとする解釈もありますが、ここでは僧侶が住んでいるわけではないという解釈によりました。
頷聯は隣人への言い訳で、誘いを受けて皆さんの談笑に加わりたかったが、「帰鬢に 塵沙を逐わんことを嫌う」といいます。家に帰ったとき鬢に砂埃がついてくるのが嫌で門を出なかったというのです。取りようによっては相手に失礼な言い方になりますが、官界で汚れることを諷していると考えるべきでしょう。
頚聯は「塵沙」の説明と解することができ、世の中の小人を蜘蛛や蜂に喩えます。蜘蛛は風に吹き千切れられた巣を繕うのにてんてこ舞いをしており、蜂は雷の音に驚いて巣を出入りするのに大わらわであるといいます。「両衙を趁う」は当時の官吏が朝夕二回役所に出勤していたことを指し、それを蜜蜂が一日二回巣に出入りすることに喩えます。
尾聯は結びで、「春事の約」は春が役人の任官の時期であるので出仕の誘いをいうとみられます。「容」は豈と同じ意味の助字で、どうして……であろうか、そうではないという反語です。しばしばお誘いを断わってきましたが、いまとなってはまだ咲いている花、これから咲く花はあるでしょうか、ありませんねと結ぶのです。
詩題に「隣里に示す」とありますが、詩は気心の知れた友人に自分が官途につかない理由をしめしたもので、随所に自負と反俗の精神、詩魂の余裕がみてとれます。