北宋68ー陳師道
十七日観潮 十七日 潮を観る
漫漫平沙走白虹 漫漫(まんまん)たる平沙(へいさ) 白虹(はくこう)を走らす
瑶台失手玉杯空 瑶台(ようだい) 手を失(しっ)して玉杯(ぎょくはい)空(むな)し
晴天揺動清江底 晴天(せいてん)揺動(ようどう)す 清江(せいこう)の底(うち)
晩日浮沈急浪中 晩日(ばんじつ)浮沈(ふちん)す 急浪(きゅうろう)の中(うち)
⊂訳⊃
広く平らな砂浜に きらめく波が突きすすむ
天上界の仙人が 手を滑らせて玉杯が砕けたようだ
晴れた空は 流れのなかで揺さぶられ
赤い夕陽は 波涛のなかで浮き沈みする
⊂ものがたり⊃ 黄庭堅や秦観よりも少し年少で、「蘇門六学士」と呼ばれる場合に含まれる詩人に陳師道(ちんしどう)がいます。陳師道は黄庭堅の弟子でもあり、「江西詩派」の祖のひとりです。
陳師道(1053ー1101)は徐州彭城(江蘇省徐州市)の人。仁宗の皇裕五年(1053)に三司塩鉄副使陳洎(ちんき)の孫として生まれました。神宗の煕寧元年(1068)、十六歳のときから曾鞏(そうきょう)に師事して勉学に励みますが、王安石の経学をきらって進士の試験を受けませんでした。
元豊五年(1082)に曾鞏が中書舎人になると、陳師道を史館に任じようとしましたが、曾鞏が亡くなったため実現しませんでした。曾鞏の死後は黄庭堅に詩を学び、哲宗の元祐二年(1087)、三十五歳のときに蘇軾らの推薦で徐州の国子監教授になります。ついで穎州(安徽省阜陽市)の国子監教授に転じますが、そのご都に出て浪々の身になります。元符元年(1098)にようやく秘書省正字の職につくことができ太常博士になりますが生涯貧窮に苦しみ、徽宗の建中靖国元年(1101)の冬に亡くなります。享年四十九歳です。
詩題の「十七日」は陰暦八月十七日のことで、銭塘江の大海嘯が最大になる日です。海嘯は潮の干満差によって起こるので、最大になる日は年によって前後します。大海嘯の壮観を見物に訪れる人もおおく、陳師道もみる機会があったのでしょう。
「白虹」は煌めく虹という意味で、押し寄せる海嘯の波頭を虹に喩えます。「瑶台」は仙人のすむ宮殿で、波の勢いを天上の仙人が手を滑らせて「玉杯」が砕けたさまに喩えます。奇抜な想像です。後半二句の対句も海嘯を比喩的に描くもので、川の流れのなかで「晴天」が揺さぶられているようであり、激しい波のなかで「晩日」(夕陽)が浮き沈みするようだと詠います。
喩的技法は秦観の「牽牛花」などにも見られる手法で、陳師道はそれを先鋭化しました。その意味で陳師道はまぎれもない蘇門の詩人でしたが、貧困のため自己の貧窮を赤裸々に詠うというこれまでの士大夫には見られなかった方向へすすんでゆきます。そこには杜甫の詩の一面を自己に即して展開するという詩魂がみられます。
十七日観潮 十七日 潮を観る
漫漫平沙走白虹 漫漫(まんまん)たる平沙(へいさ) 白虹(はくこう)を走らす
瑶台失手玉杯空 瑶台(ようだい) 手を失(しっ)して玉杯(ぎょくはい)空(むな)し
晴天揺動清江底 晴天(せいてん)揺動(ようどう)す 清江(せいこう)の底(うち)
晩日浮沈急浪中 晩日(ばんじつ)浮沈(ふちん)す 急浪(きゅうろう)の中(うち)
⊂訳⊃
広く平らな砂浜に きらめく波が突きすすむ
天上界の仙人が 手を滑らせて玉杯が砕けたようだ
晴れた空は 流れのなかで揺さぶられ
赤い夕陽は 波涛のなかで浮き沈みする
⊂ものがたり⊃ 黄庭堅や秦観よりも少し年少で、「蘇門六学士」と呼ばれる場合に含まれる詩人に陳師道(ちんしどう)がいます。陳師道は黄庭堅の弟子でもあり、「江西詩派」の祖のひとりです。
陳師道(1053ー1101)は徐州彭城(江蘇省徐州市)の人。仁宗の皇裕五年(1053)に三司塩鉄副使陳洎(ちんき)の孫として生まれました。神宗の煕寧元年(1068)、十六歳のときから曾鞏(そうきょう)に師事して勉学に励みますが、王安石の経学をきらって進士の試験を受けませんでした。
元豊五年(1082)に曾鞏が中書舎人になると、陳師道を史館に任じようとしましたが、曾鞏が亡くなったため実現しませんでした。曾鞏の死後は黄庭堅に詩を学び、哲宗の元祐二年(1087)、三十五歳のときに蘇軾らの推薦で徐州の国子監教授になります。ついで穎州(安徽省阜陽市)の国子監教授に転じますが、そのご都に出て浪々の身になります。元符元年(1098)にようやく秘書省正字の職につくことができ太常博士になりますが生涯貧窮に苦しみ、徽宗の建中靖国元年(1101)の冬に亡くなります。享年四十九歳です。
詩題の「十七日」は陰暦八月十七日のことで、銭塘江の大海嘯が最大になる日です。海嘯は潮の干満差によって起こるので、最大になる日は年によって前後します。大海嘯の壮観を見物に訪れる人もおおく、陳師道もみる機会があったのでしょう。
「白虹」は煌めく虹という意味で、押し寄せる海嘯の波頭を虹に喩えます。「瑶台」は仙人のすむ宮殿で、波の勢いを天上の仙人が手を滑らせて「玉杯」が砕けたさまに喩えます。奇抜な想像です。後半二句の対句も海嘯を比喩的に描くもので、川の流れのなかで「晴天」が揺さぶられているようであり、激しい波のなかで「晩日」(夕陽)が浮き沈みするようだと詠います。
喩的技法は秦観の「牽牛花」などにも見られる手法で、陳師道はそれを先鋭化しました。その意味で陳師道はまぎれもない蘇門の詩人でしたが、貧困のため自己の貧窮を赤裸々に詠うというこれまでの士大夫には見られなかった方向へすすんでゆきます。そこには杜甫の詩の一面を自己に即して展開するという詩魂がみられます。