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ティェンタオの自由訳漢詩 2239

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 北宋64ー秦観
     牽牛花                牽牛花

  銀漢初移漏欲残   銀漢(ぎんかん)  初めて移りて 漏(ろう)  残(ざん)せんと欲す
  歩虚人倚玉欄干   歩虚(ほきょ)の人は倚(よ)る   玉欄干(ぎょくらんかん)
  仙衣染得天辺碧   仙衣(せんい)   染め得たり  天辺(てんぺん)の碧(へき)
  乞与人間向暁看   人間(じんかん)に乞与(きつよ)して  暁(あかつき)に向(おい)て看(み)しむ

  ⊂訳⊃
          天の川が傾き始め  夜の時刻も終わるころ

          虚空を歩む仙女が  欄干にもたれている

          仙女の羽衣は    天の果ての碧に染まり

          この世に身を委ね  夜明けに姿をみせたのだ


 ⊂ものがたり⊃ 黄庭堅が豪快、男性的だったのに対して、同時代の秦観(しんかん)は繊細な目を持つ詩人です。秦観(1049ー1101)は揚州高郵(江蘇省高郵県)の人。若いころは兵書を読んだりしていましたが、神宗の元豊元年(1078)、三十歳のときに「黄楼の賦」を蘇軾に送って激賞されます。王安石にも詩才を認められます。
 哲宗即位の元豊八年(1085)、三十七歳で進士に及第、定海(浙江省定海県)の主簿になります。そのご蔡州(河南省汝県)の国子監教授をへて元祐三年(1088)に太常博士、元祐八年(1093)には国史院編修になります。
 翌紹聖元年に哲宗の親政がはじまると、蘇軾と親しかった秦観は杭州(浙江省揚州市)通判に左遷され、つづいて処州(浙江省)、柳州(広西壮族自治区柳州市)、横州(広西壮族自治区南寧県)、雷州(広東省海康県)と遠隔地に移されます。徽宗の即位によってようやく赦されますが、宜徳郎に任じられて都にもどる途中、建中靖国元年(1101)、藤州(広西壮族自治区藤県)まで来たところで亡くなりました。享年五十三歳です。
 詩題の「牽牛花」(けんぎゅうか)は朝顔のことです。夜明けに咲いた朝顔の花をみて、天界から降りてきた仙女のようだと想像する幻想的な詩です。「漏」は漏刻台(水時計)のことですが、夜の時間を示すのにも用いられます。夜の時間がそろそろ終わるころです。
 「歩虚の人」は虚空を歩む人で、仙人(仙女)を意味します。朝顔が棚に蔓を捲きつけて咲いている姿を、天界から降りてきた仙女が欄干にもたれて立っているようだというのです。「天辺の碧」は天の果てのエメラルド色で、青い朝顔の花を夜明けの空の碧色に染め上げられた「仙衣」(羽衣)に喩えるのです。そして朝顔の花は、「人間」(人の世)に身をゆだねて夜明けに姿を見せた仙女なのだと幻想的に詠って結びとします。

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