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ティェンタオの自由訳漢詩 2237

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 北宋62ー黄庭堅
   雨中登岳陽楼          雨中 岳陽楼に登り
   望君山 二首 其一       君山を望む 二首  其の一

  投荒万死鬢毛斑   荒(こう)に投ぜられて  万死(ばんし)  鬢毛(びんもう)斑(まだら)なり
  生出瞿塘灔澦関   生きて出(い)づ  瞿塘(くとう)  灔澦(えんよ)の関(かん)
  未到江南先一笑   未(いま)だ江南(こうなん)に到らざるに  先(ま)ず一笑(いっしょう)
  岳陽楼上対君山   岳陽楼上(がくようろうじょう)  君山(くんざん)に対す

  ⊂訳⊃
          追放されて死ぬ目にあい  白髪まじりの鬢となったが

          生きてようやく瞿塘峡    灔澦堆を逃れてきた

          まだ江南には至らないが  ほっとひといき

          雨のなか岳陽楼に上って  君山に向かい合う


 ⊂ものがたり⊃ 詩題中の「岳陽楼」は岳州(湖南省岳陽市)の西門上に立つ城楼で、李白・杜甫をはじめ唐代の詩人が多く詩を賦している有名詩跡です。この詩には作者の跋が付されており、「崇寧元正月二十三日、夜、荊州を発し、二十六日巴陵に至る。数日陰雨、出づべからず。二月朔旦、独り岳陽楼に上る。太守楊器之・監郡黄彦、並び来たる。率えて同に君山に遊ぶ」とあります。
 元符三年(1100)正月に哲宗が崩じて徽宗が即位すると、向太后が摂政になり、新法党章惇(しょうじゅん)の職を免じて新旧両党の融和をはかることになりました。黄庭堅は赦されて太平州(安徽省当涂県)の知州事を希望し、認められて翌建中靖国元年(1101)に蜀地を離れ、長江を下って荊州(湖北省沙市市)で冬をすごします。明けて崇寧元年(1102)正月に荊州を発ち、岳州まで来たときの作です。
 詩ははじめ二句で、これまでの経緯を皮肉まじりに述べます。「荒」は都からもっとも遠く隔たった地域を荒服といい、その荒(不毛の地)のことでしょう。「瞿塘 灔澦の関」は長江三峡のひとつ瞿塘峡、その江中に灔澦堆という岩石があり、航行の難所として知られていました。その難関を生きて通り抜けたと詠うことによって、六年にわたる貶謫からやっと湖北の平原に出て来たことを詠うのです。
 後半の二句は岳州に着いた安堵感を述べるもので、「江南」は任地の太平州とも故郷の洪州とも考えられますが、陽光かがやく地です。そこにまだ着いてはいないがほっと一息、笑みがこぼれて「君山」に向かい合っています。君山は洞庭湖中の島で、舜の二妃(娥皇と女英)を祀る湘君祠があります。

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