北宋60ー黄庭堅
寄黄幾復 黄幾復に寄す
我居北海君南海 我れは北海(ほっかい)に居り 君は南海(なんかい)
寄雁伝書謝不能 雁(がん)に寄せて書を伝うるに 能(あた)わずと謝(しゃ)す
桃李春風一杯酒 桃李(とうり)の春風(しゅんぷう) 一杯の酒
江湖夜雨十年燈 江湖(こうこ)の夜雨(やう) 十年の灯(ともしび)
持家但有四立壁 家を持するに 但(た)だ四立(しりつ)の壁有るのみ
治病不蘄三折肱 病を治するに 三たび肱(ひじ)を折るを蘄(もと)めず
想得読書頭已白 想(おも)い得たり 書を読んで 頭(こうべ) 已(すで)に白く
隔渓猿哭瘴渓藤 渓(たに)を隔てて 猿は哭(な)かん 瘴渓(しょうけい)の藤(ふじ)に
⊂訳⊃
わたしは北海にあり 君は南海にいる
雁に便りを頼んだが できないと断わられる
桃李の花の咲く下で 春風に吹かれて飲んだ酒
江湖に雨の降る夜に ともに学んだ十年の灯火
家はといえば 四方に壁があるだけで
苦労を重ねて いまさら出世しようとも思わない
思うに君は 読書に励んで白髪になり
谷川の向こうでは 猿が蔓にすがって啼いていることだろう
⊂ものがたり⊃ 詩題の「黄幾復」(こうきふく)は豫章(江西省南昌市)の人で、少年時代からの友人でした。分寧と豫章はやや離れていますが、いっしょに学んだ時期があったのでしょう。元豊八年(1085)、四十一歳のときに徳平鎮(山東省徳州市)で書いた詩とされており、都へ召し出される直前の作です。
「北海」と「南海」は二人のいる場所。黄幾復はそのころ四会(広東省広州市の西)の知県事をしており、ともに海辺の地ではないので南北に分かれているのを雅していうのでしょう。 中四句はじめの対句では青少年時代の想い出を詠い。ロマンチックな表現になっています。「江湖」は官に対する野の意味もありますが、ここでは二人の故郷鄱陽湖のほとりをいいます。「十年の灯」は勉学の比喩でしょう。
つぎの対句では自分のいまの生活と心情を述べます。「四立の壁」は『史記』司馬相如列伝を踏まえ、貧乏で家具もない状態ののことです。「病を治するに 三たび肱を折るを蘄めず」は『春秋左氏伝』定公十三年の条に「斉の高彊(こうきょう)曰く、三たび肱を折りて、良医と為ることを知る」とあるのを踏まえます。三度も肱を折るような辛い経験をしてはじめて良医になることが分かるという意味で、出世のために払う努力のことです。それを「蘄めず」といいます。
結びの二句は、黄幾復を思いやる言葉で、谷川のむこうでは「猿は哭かん 瘴渓の藤に」と猿が「藤」(蔓性植物)にすがりついて啼いている寂しげなようすを詠います。「瘴渓」は韓愈の有名な「好し 吾が骨を収めよ 瘴江の辺」の句を踏まえており、毒気の立ちこめる南方の川のことです。この詩を贈られた三年後に黄幾復は亡くなりました。
寄黄幾復 黄幾復に寄す
我居北海君南海 我れは北海(ほっかい)に居り 君は南海(なんかい)
寄雁伝書謝不能 雁(がん)に寄せて書を伝うるに 能(あた)わずと謝(しゃ)す
桃李春風一杯酒 桃李(とうり)の春風(しゅんぷう) 一杯の酒
江湖夜雨十年燈 江湖(こうこ)の夜雨(やう) 十年の灯(ともしび)
持家但有四立壁 家を持するに 但(た)だ四立(しりつ)の壁有るのみ
治病不蘄三折肱 病を治するに 三たび肱(ひじ)を折るを蘄(もと)めず
想得読書頭已白 想(おも)い得たり 書を読んで 頭(こうべ) 已(すで)に白く
隔渓猿哭瘴渓藤 渓(たに)を隔てて 猿は哭(な)かん 瘴渓(しょうけい)の藤(ふじ)に
⊂訳⊃
わたしは北海にあり 君は南海にいる
雁に便りを頼んだが できないと断わられる
桃李の花の咲く下で 春風に吹かれて飲んだ酒
江湖に雨の降る夜に ともに学んだ十年の灯火
家はといえば 四方に壁があるだけで
苦労を重ねて いまさら出世しようとも思わない
思うに君は 読書に励んで白髪になり
谷川の向こうでは 猿が蔓にすがって啼いていることだろう
⊂ものがたり⊃ 詩題の「黄幾復」(こうきふく)は豫章(江西省南昌市)の人で、少年時代からの友人でした。分寧と豫章はやや離れていますが、いっしょに学んだ時期があったのでしょう。元豊八年(1085)、四十一歳のときに徳平鎮(山東省徳州市)で書いた詩とされており、都へ召し出される直前の作です。
「北海」と「南海」は二人のいる場所。黄幾復はそのころ四会(広東省広州市の西)の知県事をしており、ともに海辺の地ではないので南北に分かれているのを雅していうのでしょう。 中四句はじめの対句では青少年時代の想い出を詠い。ロマンチックな表現になっています。「江湖」は官に対する野の意味もありますが、ここでは二人の故郷鄱陽湖のほとりをいいます。「十年の灯」は勉学の比喩でしょう。
つぎの対句では自分のいまの生活と心情を述べます。「四立の壁」は『史記』司馬相如列伝を踏まえ、貧乏で家具もない状態ののことです。「病を治するに 三たび肱を折るを蘄めず」は『春秋左氏伝』定公十三年の条に「斉の高彊(こうきょう)曰く、三たび肱を折りて、良医と為ることを知る」とあるのを踏まえます。三度も肱を折るような辛い経験をしてはじめて良医になることが分かるという意味で、出世のために払う努力のことです。それを「蘄めず」といいます。
結びの二句は、黄幾復を思いやる言葉で、谷川のむこうでは「猿は哭かん 瘴渓の藤に」と猿が「藤」(蔓性植物)にすがりついて啼いている寂しげなようすを詠います。「瘴渓」は韓愈の有名な「好し 吾が骨を収めよ 瘴江の辺」の句を踏まえており、毒気の立ちこめる南方の川のことです。この詩を贈られた三年後に黄幾復は亡くなりました。