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ティェンタオの自由訳漢詩 2234

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 北宋59ー黄庭堅
    夜発分寧寄            夜 分寧を発し
    杜澗叟               杜澗叟に寄す

  陽関一曲水東流   陽関(ようかん)の一曲(いっきょく)  水は東に流れ
  燈火旌陽一釣舟   灯火(とうか)  旌陽(せいよう)   一釣舟(いちちょうしゅう)
  我自只如常日酔   我れ自(おのず)から只(た)だ常日(じょうじつ)の酔(えい)の如し
  満川風月替人愁   満川(まんせん)の風月(ふうげつ)  人に替(かわ)って愁う

  ⊂訳⊃
          陽関の詩に見送られ   水は東へと流れていく

          故郷の山よ  灯火よ   この小さな釣り舟よ

          酔っぱらっているのは  いつものこと

          川に吹く風  月あかり   私のかわりに愁えている


 ⊂ものがたり⊃ 蘇軾(1036ー1101)は王安石より十五歳年少で、嘉祐二年(1057)正月、二十二歳で進士に及第しました。蘇軾は王安石の新法時代を生きた詩人で政争に巻き込まれます。蘇軾については、その生涯を別途(ティェンタオの自由訳漢詩1304ー1450)で扱っていますので、ここでは「蘇門四学士」と称される蘇軾の弟子たちのなかから黄庭堅(こうていけん)と秦観を取り上げます。
 黄庭堅(1045ー1105)は洪州分寧(江西省修水県)の人。神宗が即位した治平四年(1067)に二十三歳で進士に及第、流入して地方官を転々とします。大名府(河北省大名県)の国子監教授のとき蘇軾に詩を送って激賞されました。
 哲宗の即位後、都に召されて秘書省校書郎になり、神宗実録院検討官・集賢校理、ついで著作佐郎にすすみます。元祐三年(1088)には蘇軾、晁補之(ちょうほし)とともに科挙の試験官を務めますが、そのご母の喪に服するために帰郷します。
 紹聖二年(1095)、除服して都にもどるときには哲宗の親政になっていました。新法党が起用され、黄庭堅は神宗実録のなかで新法を非難したと弾劾され、涪州(四川省涪陵県)別駕に貶謫されます。ついで黔州(四川省彭水県)安置、戒州(四川省宜賓市)に移されます。徽宗が即位した元符三年(1100)にいったん赦されますがすぐに宜州(広西壮族自治区宜山県)に再貶され、任地へ着いて四年後の崇寧四年(1105)に亡くなりました。享年六一歳です。
 詩題の「分寧」(ぶんねい)は作者の故郷。元豊六年(1083)、三十九歳のときに故郷を訪ね、発つときの作とされています。「杜澗叟」(とかんそう)は名を槃(はん)といい、故郷の友人です。「陽関」は王維の詩「元二の西安に使するを送る」(ティェンタオの自由訳漢詩131、2008.11.13のブログ参照)のことで、送別の宴でこの詩が詠われたのでしょう。「旌陽」は分寧東郊の山の名で故郷というにひとしく、「一釣舟」はみずからを釣舟に喩えるものです。後半は送別会で大いに酔ったことを詠い、酒好きのおれのことを「風月」(清風と明月)が代わって心配していてくれるととぼけてみせます。
 黄庭堅は詩作に際して「換骨奪胎」「点鉄成金」(鉄に工夫を加えて黄金にする事)などの技法を主張し、先人の詩句や詩境を自覚的に活用することを重視しました。たとえば二句目の「燈火 旌陽 一釣舟」は王維の「元二の西安に使するを送る」の二句目「客舎 青青 柳色新たなり」を換骨奪胎したものでしょう。この技法は後世に広く影響をあたえ、北宋末から南宋にかけて流行しました。そのながれを黄庭堅の故郷の名をとって「広西詩派」と称します。  

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