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ティェンタオの自由訳漢詩 1874

 初唐14ー楊炯
    従軍行              従軍行

  烽火照西京     烽火(ほうか)  西京(せいきょう)を照らし
  心中自不平     心中(しんちゅう)  自(おのず)から平(たい)らかならず
  牙璋辞鳳闕     牙璋(がしょう)  鳳闕(ほうけつ)を辞し
  鉄騎繞龍城     鉄騎(てっき)   龍城(りゅうじょう)を繞(めぐ)る
  雪暗凋旗画     雪暗くして旗画(きが)凋(しぼ)み
  風多雑鼓声     風多くして鼓声(こせい)を雑(まじ)う
  寧為百夫長     寧(むし)ろ百夫(ひゃっぷ)の長と為(な)らんも
  勝作一書生     一書生(いちしょせい)と作(な)るに勝(まさ)れり

  ⊂訳⊃
          長安の都に   烽火が届くと
          おのずから   心は奮い立つ
          割符を奉じて  宮城を辞し
          鉄甲の騎馬が  龍城を囲む
          雪は暗澹と舞って  旌旗は垂れ
          風は猋々と吹いて  太鼓の音とまじり合う
          たとえ  百人の長となろうとも
          書生となるよりは  まだましだ


 ⊂ものがたり⊃ 楊炯(ようけい:650ー695)は華州華陰(陝西省華陰県)の人。王勃と同じころに生まれ、十二歳のときに科挙の神童科に及第しました。二十七歳で校書郎になり、三十二歳のとき崇文館学士になります。
 高宗の時代は東に高句麗遠征を行うとともに、西にも兵を出し、顕慶二年(657)に西突厥を滅ぼしています。龍朔二年(663)には吐蕃を討ち、六月に吐谷渾を滅ぼしました。この年は百済の白村江で倭の水軍を破っていますので、唐は東西で戦っていたことになります。
 詩題の「従軍行」(じゅうぐんこう)は楽府題で、本来は出征兵士の苦労を嘆く民謡でした。その詩題に功名心に燃えて出陣しようとする兵士の気持ちを盛り込みました。詩中に「西京」とあるのは洛陽から見て西にある長安のことで、洛陽からの視線です。
 全体は漢代を借りており、変事を報せる烽火が都に届き、心が奮い立つとまず述べます。「牙璋」は軍の出動を命じる割符のことで、牙は本営を意味しますので将軍が携える牡契でしょう。「龍城」は漢代の匈奴の根拠地をいい、城があったわけではありません。
 つぎの二句は戦場のようすを描くものですが、様式化された表現であり、作者が戦場に行ったわけではないことを示しているでしょう。従って結びの二句も兵士を励ます言葉と考えるべきです。
 楊炯は時代に忠実な官吏でしたが、高宗没後の光宅元年(684)、李敬業(りけいぎょう)の挙兵があったとき、連座して梓州(四川省三台県)の司法参軍に左遷されます。のちに婺州盈川(浙江省衢県)の県令に移され、武后の証聖元年(695)に任地で亡くなりました。享年四十六歳です。

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