初唐13ー王勃
滕王閣 滕王閣
滕王高閣臨江渚 滕王(とうおう)の高閣 江渚(こうしょ)に臨み
佩玉鳴鸞罷歌舞 佩玉(はいぎょく) 鳴鸞(めいらん) 歌舞 罷(や)みぬ
画棟朝飛南浦雲 画棟(がとう) 朝(あした)に飛ぶ南浦(なんぽ)の雲
珠簾暮捲西山雨 珠簾(しゅれん) 暮(くれ)に捲(ま)く西山の雨
?雲潭影日悠悠 閑雲(かんうん) 潭影(たんえい) 日に悠悠(ゆうゆう)
物換星移幾度秋 物(もの)換(か)わり星移りて幾度の秋ぞ
閣中帝子今何在 閣中(かくちゅう)の帝子 今(いま)何(いずこ)にか在る
檻外長江空自流 檻外(かんがい)の長江 空しく自(おのず)から流る
⊂訳⊃
滕王の楼閣は 川の渚を見おろして立つ
佩玉や鈴を鳴らして 集まった人の姿はない
棟木の絵には 朝ごとに南浦の雲がただよい
珠簾を巻けば 西山の日暮れの雨が望まれた
流れゆく雲 淵の影 万物は日々に移ろい
歳月は流れて 幾度の秋を迎えたことか
楼閣に遊んだ天子の御子は 今いずこ
欄干の向こうに大河の水が ひとり空しく流れている
⊂ものがたり⊃ 王勃は蜀にいたとき、官の奴隷が罪を犯して逃亡したのを匿いましたが、そのことが発覚するのが恐くなり、殺してしまいます。罪により死刑になるところを、大赦によって赦されましたが、父親の王福畤(おうふくじ)は息子の罪に連座して交阯(コーチ:ベトナム・ハノイ付近)に流されてしまいます。
赦されて獄を出た王勃は、高宗の上元二年(675)九月、父を訪ねて交阯に向かいます。その途中、洪州(江西省南昌市)に立ち寄り、重陽の節句に行われた「滕王閣」(とうおうかく)修復の祝宴に列席しました。
詩はこのとき洪州都督の求めに応じて作ったものです。七言八句の詩は、当時はまだ珍しいものでした。滕王閣は高祖の二十二番目の子、滕王李元嬰(りげんえい)が洪州都督のときに建てたもので、洪州城の西門(章江門)の外、贛江(かんこう)東岸の高台に朱塗りの楼閣が建っていました。
詩ははじめの四句で創建当時の滕王閣の栄華のようすを詠います。「佩玉 鳴鸞」は貴人の帯びる佩玉と車飾りの鸞鳥につけられた鈴のことで、貴人の往来で賑合ったさまを示し、それも今は止んだと詠います。
つぎの一組の対句では、周囲の自然と融け合う滕王閣の美しさを幽玄に描きます。「南浦」(南の入江)は楚辞の用例から送別の地を意味しています。後半の四句は歳月の無常を詠うもので、月日の流れのなかでかつての栄華は失われ、欄干の向こうを贛江だけが空しく流れていると結びます。
この詩は高官である洪州都督におもねるところがなく、「閣中の帝子 今何にか在る」と滕王すら突き放したような書き方になっています。王勃の屈折した感情を反映するものでしょう。王勃はこのあと旅をつづけ、船で南海(南シナ海)を渡る途中、海に落ちて死んだといいます。二十七歳の若さでした。
滕王閣 滕王閣
滕王高閣臨江渚 滕王(とうおう)の高閣 江渚(こうしょ)に臨み
佩玉鳴鸞罷歌舞 佩玉(はいぎょく) 鳴鸞(めいらん) 歌舞 罷(や)みぬ
画棟朝飛南浦雲 画棟(がとう) 朝(あした)に飛ぶ南浦(なんぽ)の雲
珠簾暮捲西山雨 珠簾(しゅれん) 暮(くれ)に捲(ま)く西山の雨
?雲潭影日悠悠 閑雲(かんうん) 潭影(たんえい) 日に悠悠(ゆうゆう)
物換星移幾度秋 物(もの)換(か)わり星移りて幾度の秋ぞ
閣中帝子今何在 閣中(かくちゅう)の帝子 今(いま)何(いずこ)にか在る
檻外長江空自流 檻外(かんがい)の長江 空しく自(おのず)から流る
⊂訳⊃
滕王の楼閣は 川の渚を見おろして立つ
佩玉や鈴を鳴らして 集まった人の姿はない
棟木の絵には 朝ごとに南浦の雲がただよい
珠簾を巻けば 西山の日暮れの雨が望まれた
流れゆく雲 淵の影 万物は日々に移ろい
歳月は流れて 幾度の秋を迎えたことか
楼閣に遊んだ天子の御子は 今いずこ
欄干の向こうに大河の水が ひとり空しく流れている
⊂ものがたり⊃ 王勃は蜀にいたとき、官の奴隷が罪を犯して逃亡したのを匿いましたが、そのことが発覚するのが恐くなり、殺してしまいます。罪により死刑になるところを、大赦によって赦されましたが、父親の王福畤(おうふくじ)は息子の罪に連座して交阯(コーチ:ベトナム・ハノイ付近)に流されてしまいます。
赦されて獄を出た王勃は、高宗の上元二年(675)九月、父を訪ねて交阯に向かいます。その途中、洪州(江西省南昌市)に立ち寄り、重陽の節句に行われた「滕王閣」(とうおうかく)修復の祝宴に列席しました。
詩はこのとき洪州都督の求めに応じて作ったものです。七言八句の詩は、当時はまだ珍しいものでした。滕王閣は高祖の二十二番目の子、滕王李元嬰(りげんえい)が洪州都督のときに建てたもので、洪州城の西門(章江門)の外、贛江(かんこう)東岸の高台に朱塗りの楼閣が建っていました。
詩ははじめの四句で創建当時の滕王閣の栄華のようすを詠います。「佩玉 鳴鸞」は貴人の帯びる佩玉と車飾りの鸞鳥につけられた鈴のことで、貴人の往来で賑合ったさまを示し、それも今は止んだと詠います。
つぎの一組の対句では、周囲の自然と融け合う滕王閣の美しさを幽玄に描きます。「南浦」(南の入江)は楚辞の用例から送別の地を意味しています。後半の四句は歳月の無常を詠うもので、月日の流れのなかでかつての栄華は失われ、欄干の向こうを贛江だけが空しく流れていると結びます。
この詩は高官である洪州都督におもねるところがなく、「閣中の帝子 今何にか在る」と滕王すら突き放したような書き方になっています。王勃の屈折した感情を反映するものでしょう。王勃はこのあと旅をつづけ、船で南海(南シナ海)を渡る途中、海に落ちて死んだといいます。二十七歳の若さでした。