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ティェンタオの自由訳漢詩 1873

 初唐13ー王勃
     滕王閣              滕王閣

  滕王高閣臨江渚   滕王(とうおう)の高閣  江渚(こうしょ)に臨み
  佩玉鳴鸞罷歌舞   佩玉(はいぎょく) 鳴鸞(めいらん)  歌舞  罷(や)みぬ
  画棟朝飛南浦雲   画棟(がとう)    朝(あした)に飛ぶ南浦(なんぽ)の雲
  珠簾暮捲西山雨   珠簾(しゅれん)  暮(くれ)に捲(ま)く西山の雨
  ?雲潭影日悠悠   閑雲(かんうん)  潭影(たんえい)  日に悠悠(ゆうゆう)
  物換星移幾度秋   物(もの)換(か)わり星移りて幾度の秋ぞ
  閣中帝子今何在   閣中(かくちゅう)の帝子  今(いま)何(いずこ)にか在る
  檻外長江空自流   檻外(かんがい)の長江  空しく自(おのず)から流る

  ⊂訳⊃
          滕王の楼閣は  川の渚を見おろして立つ
          佩玉や鈴を鳴らして  集まった人の姿はない
          棟木の絵には  朝ごとに南浦の雲がただよい
          珠簾を巻けば  西山の日暮れの雨が望まれた
          流れゆく雲    淵の影  万物は日々に移ろい
          歳月は流れて  幾度の秋を迎えたことか
          楼閣に遊んだ天子の御子は  今いずこ
          欄干の向こうに大河の水が  ひとり空しく流れている


 ⊂ものがたり⊃ 王勃は蜀にいたとき、官の奴隷が罪を犯して逃亡したのを匿いましたが、そのことが発覚するのが恐くなり、殺してしまいます。罪により死刑になるところを、大赦によって赦されましたが、父親の王福畤(おうふくじ)は息子の罪に連座して交阯(コーチ:ベトナム・ハノイ付近)に流されてしまいます。
 赦されて獄を出た王勃は、高宗の上元二年(675)九月、父を訪ねて交阯に向かいます。その途中、洪州(江西省南昌市)に立ち寄り、重陽の節句に行われた「滕王閣」(とうおうかく)修復の祝宴に列席しました。
 詩はこのとき洪州都督の求めに応じて作ったものです。七言八句の詩は、当時はまだ珍しいものでした。滕王閣は高祖の二十二番目の子、滕王李元嬰(りげんえい)が洪州都督のときに建てたもので、洪州城の西門(章江門)の外、贛江(かんこう)東岸の高台に朱塗りの楼閣が建っていました。
 詩ははじめの四句で創建当時の滕王閣の栄華のようすを詠います。「佩玉 鳴鸞」は貴人の帯びる佩玉と車飾りの鸞鳥につけられた鈴のことで、貴人の往来で賑合ったさまを示し、それも今は止んだと詠います。
 つぎの一組の対句では、周囲の自然と融け合う滕王閣の美しさを幽玄に描きます。「南浦」(南の入江)は楚辞の用例から送別の地を意味しています。後半の四句は歳月の無常を詠うもので、月日の流れのなかでかつての栄華は失われ、欄干の向こうを贛江だけが空しく流れていると結びます。
 この詩は高官である洪州都督におもねるところがなく、「閣中の帝子 今何にか在る」と滕王すら突き放したような書き方になっています。王勃の屈折した感情を反映するものでしょう。王勃はこのあと旅をつづけ、船で南海(南シナ海)を渡る途中、海に落ちて死んだといいます。二十七歳の若さでした。 

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