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ティェンタオの自由訳漢詩 2228

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 北宋53ー王安石
    泊船瓜洲               船を瓜洲に泊す

  京口瓜洲一水間   京口(けいこう)   瓜洲(かしゅう)は   一水(いっすい)間(へだ)て
  鐘山秪隔数重山   鐘山(しょうざん)  秪(た)だ隔(へだ)つ  数重(すうちょう)の山
  春風又緑江南岸   春風(しゅんぷう)  又(ま)た緑なり     江南の岸
  明月何時照我還   明月(めいげつ)  何(いず)れの時か  我が還(かえ)るを照らさん

  ⊂訳⊃
          京口と瓜洲は  江を隔てて向かい合い

          重なる山々が  鐘山をへだてている

          春風が吹いて  江南の岸辺は緑色

          いつになったら明月が  わが家路を照らすのか


 ⊂ものがたり⊃ 王安石の新法は時宜を得たものでしたが、広範な制度改革をあまりに急速に実施したため、改革の趣旨が末端の行政組織まで浸透しないという欠点がありました。新法によって既得権益を侵されることになる豪農や大商人たちは、末端の混乱をとらえて新法反対をとなえます。
 官僚の多くも豪農層の子弟であったため生家一族の利益が侵されるのを好まず、新法の抑商重農政策は産業や流通の発達した時代の趨勢に合わない保守的な政策だといって反対しました。
 もうひとつ王安石の評判を悪くしたのは、反対派の官僚を中央から駆逐したことです。反対派の存在を許さない厳しい人事によって世論(当時は知識人の言論)を封殺しましたので、良心的な官僚の反発を招くことになりました。
 煕寧六年(1073)は前年から雨が少なく不作でした。新法の反対派はそれを天の警告として王安石の辞任を要求しました。このときはさいわい雨が降って祈祷の甲斐があったとされましたが、王安石に対する批判はやまず、翌煕寧七年に宰相の職を辞しました。翌年に復帰しますが、再任一年後の煕寧九年(1076)に再び辞職します。
 王安石が職を辞したのは個人攻撃が止まなかったからです。王安石は呂恵卿(ろけいけい)ら新法党の幹部で政府の要職を固めて改革の推進態勢をととのえ、自身は都にとどまって政策の行方を見守ることにしました。ところが、将来を期待していたひとり息子が病没するという不幸に遇います。息子の死を機に王安石は都を離れることにし、元豊二年(1079)、五十九歳のとき、江寧(江蘇省南京市)郊外の鐘山に隠棲することになります。 
 詩題の「瓜洲」は「京口」(江蘇省鎮江市)の対岸(北)にあり、長江の渡津です。そこに船を泊めて故郷を望む詩です。「鐘山」は江寧郊外、玄武湖の東にある紫金山のことで、王安石は鐘山の麓を隠棲の地と定めていました。詩は隠棲地にむかうときの作と思われ、結句の「明月 何れの時か 我が還るを照らさん」に改革の途中で引退する不満の心情がうかがえます。

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