北宋49ー王安石
梅 花 梅 花
牆角数枝梅 牆角(しょうかく) 数枝(すうし)の梅
凌寒独自開 寒(かん)を凌(しの)いで独り自(みずか)ら開く
遥知不是雪 遥かに知る 是(こ)れ雪ならざるを
為有暗香来 暗香(あんこう)有りて来たる為なり
⊂訳⊃
垣根の角に 数本の梅の枝
まだ寒いのに ひとりで咲いている
遠くから見ても 雪ではないとわかる
仄かな香りが 伝わってくるからだ
⊂ものがたり⊃ 仁宗の四十一年にわたる治世のあいだに宋は経済発展をつづけていましたが、国家財政の危機はすでに放置できない状態になっていました。原因は国家の内部構造にありました。その第一は軍制です。宋は政府直轄の常備軍百万を北の国境地帯と首都汴京に配置していましたが、その維持費はすべて国費でまかなわれていました。
第二は文治政策による文官優位の中央集権体制です。科挙を通じて多数の官吏が生み出され、待遇は歴代王朝中最高であったといいます。そのため官吏の給与は膨大な額に達しました。第三は形勢戸(富裕層)や官戸(官僚を出した家)の税金逃れです。都市の商人や地方の地主層が税制の抜け穴を使って税や徭役を逃れ、富有化していくなか、一般庶民は重税のために疲弊し切っていました。
王安石(おうあんせき)は中国史上稀有の改革官僚であったと言っていいと思います。英宗の治世四年のあと二十歳で即位した神宗は、王安石を翰林学士兼侍講に任命し、その政見に直接耳を傾けて大いに共鳴します。改革の実行を決意した神宗は煕寧二年(1069)二月、王安石を参知政事に任じ、新法の立案と実行に当たらせます。
王安石の新法については多くの歴史書に論述されていますのでここでは省略しますが、新法の基本は農民大衆の民力を向上させて国庫の安定を図ることでした。その新政が豪商や豪農の利益を損じるものであったことはもとよりですが、政府の有識者までが反対するようになったのは、その政策があまりにも経済政策重視にかたむき、当時の知識人が政事の拠りどころにしていた儒教の理念に反していると見られたからです。
蘇軾ははじめ新法の必要性を認めていましたが、煕寧四年(1071)正月に王安石が科挙の法を改めようとしたので、天子の求めに応じて三言を献じました。それは、政事改革は急ぎ過ぎてはならない、人材の採用については先鋭に過ぎてはならない、臣下の献言の聴取は広過ぎてはならない、というものでした。つまり、王安石の改革は急進的にすぎると批判したのです。
王安石は(1021ー1086)は撫州臨川(江西省臨川市)の人。真宗の天禧五年(1021)に生まれ、地方官であった父を十九歳のときに亡くします。仁宗の慶暦二年(1042)に二十二歳で進士に及第し、八百三十五名中四位という成績でした。はじめ揚州(江蘇省揚州市)の幕職官である簽書淮南節度判官に任じられ、三年間の地方勤務のあと中央に呼びもどされるはずでしたが、みずから希望して地方勤務をつづけました。父を亡くしていた王安石は家族を養わなければならない立場にあり、収入の多い地方勤務希望したと見られます。地方官として江南各地を勤務するあいだに政事の歪みに気づいていきました。
煕寧元年(1068)、四十八歳のときに召し出されて翰林学士兼侍講になります。翌煕寧二年に参知政事になり、それから八年間政事改革に取り組みます。煕寧三年(1070)十二月には礼部侍郎・同中書門下平章事になって政権をまかされています。新法によって宋の財政は改善されますが反対する官僚も多く、新法党と旧法党の対立を生じました。
煕寧九年(1076)、五十六歳のときに職を辞し、三年後の元豊二年(1079)に江寧(江蘇省南京市)郊外の鍾山に隠居します。王安石の引退後も政府内の新法党によって改革は推進されますが、哲宗が即位して司馬光を登用した元祐元年(1086)四月から新法は全面的否定に晒され、心血を注いだ新法が廃棄されるのを見ながら亡くなりました。享年六十六歳です。
掲げた詩は制作年不明ですが、自分の生き方を「梅花」(ばいか)に託して詠っています。「牆角」は垣根の曲がり角で、数本の梅の枝がみえます。「寒」は苦難の比喩で、梅の花は困難に堪えてひとりで咲いています。白い花は遠くからみても雪ではないとわかりますが、それは「暗香」(仄かな香り)が伝わってくるからだといいます。遠くからでも薫りがわかるような人物になりたいとの抱負を述べるものでしょう。
梅 花 梅 花
牆角数枝梅 牆角(しょうかく) 数枝(すうし)の梅
凌寒独自開 寒(かん)を凌(しの)いで独り自(みずか)ら開く
遥知不是雪 遥かに知る 是(こ)れ雪ならざるを
為有暗香来 暗香(あんこう)有りて来たる為なり
⊂訳⊃
垣根の角に 数本の梅の枝
まだ寒いのに ひとりで咲いている
遠くから見ても 雪ではないとわかる
仄かな香りが 伝わってくるからだ
⊂ものがたり⊃ 仁宗の四十一年にわたる治世のあいだに宋は経済発展をつづけていましたが、国家財政の危機はすでに放置できない状態になっていました。原因は国家の内部構造にありました。その第一は軍制です。宋は政府直轄の常備軍百万を北の国境地帯と首都汴京に配置していましたが、その維持費はすべて国費でまかなわれていました。
第二は文治政策による文官優位の中央集権体制です。科挙を通じて多数の官吏が生み出され、待遇は歴代王朝中最高であったといいます。そのため官吏の給与は膨大な額に達しました。第三は形勢戸(富裕層)や官戸(官僚を出した家)の税金逃れです。都市の商人や地方の地主層が税制の抜け穴を使って税や徭役を逃れ、富有化していくなか、一般庶民は重税のために疲弊し切っていました。
王安石(おうあんせき)は中国史上稀有の改革官僚であったと言っていいと思います。英宗の治世四年のあと二十歳で即位した神宗は、王安石を翰林学士兼侍講に任命し、その政見に直接耳を傾けて大いに共鳴します。改革の実行を決意した神宗は煕寧二年(1069)二月、王安石を参知政事に任じ、新法の立案と実行に当たらせます。
王安石の新法については多くの歴史書に論述されていますのでここでは省略しますが、新法の基本は農民大衆の民力を向上させて国庫の安定を図ることでした。その新政が豪商や豪農の利益を損じるものであったことはもとよりですが、政府の有識者までが反対するようになったのは、その政策があまりにも経済政策重視にかたむき、当時の知識人が政事の拠りどころにしていた儒教の理念に反していると見られたからです。
蘇軾ははじめ新法の必要性を認めていましたが、煕寧四年(1071)正月に王安石が科挙の法を改めようとしたので、天子の求めに応じて三言を献じました。それは、政事改革は急ぎ過ぎてはならない、人材の採用については先鋭に過ぎてはならない、臣下の献言の聴取は広過ぎてはならない、というものでした。つまり、王安石の改革は急進的にすぎると批判したのです。
王安石は(1021ー1086)は撫州臨川(江西省臨川市)の人。真宗の天禧五年(1021)に生まれ、地方官であった父を十九歳のときに亡くします。仁宗の慶暦二年(1042)に二十二歳で進士に及第し、八百三十五名中四位という成績でした。はじめ揚州(江蘇省揚州市)の幕職官である簽書淮南節度判官に任じられ、三年間の地方勤務のあと中央に呼びもどされるはずでしたが、みずから希望して地方勤務をつづけました。父を亡くしていた王安石は家族を養わなければならない立場にあり、収入の多い地方勤務希望したと見られます。地方官として江南各地を勤務するあいだに政事の歪みに気づいていきました。
煕寧元年(1068)、四十八歳のときに召し出されて翰林学士兼侍講になります。翌煕寧二年に参知政事になり、それから八年間政事改革に取り組みます。煕寧三年(1070)十二月には礼部侍郎・同中書門下平章事になって政権をまかされています。新法によって宋の財政は改善されますが反対する官僚も多く、新法党と旧法党の対立を生じました。
煕寧九年(1076)、五十六歳のときに職を辞し、三年後の元豊二年(1079)に江寧(江蘇省南京市)郊外の鍾山に隠居します。王安石の引退後も政府内の新法党によって改革は推進されますが、哲宗が即位して司馬光を登用した元祐元年(1086)四月から新法は全面的否定に晒され、心血を注いだ新法が廃棄されるのを見ながら亡くなりました。享年六十六歳です。
掲げた詩は制作年不明ですが、自分の生き方を「梅花」(ばいか)に託して詠っています。「牆角」は垣根の曲がり角で、数本の梅の枝がみえます。「寒」は苦難の比喩で、梅の花は困難に堪えてひとりで咲いています。白い花は遠くからみても雪ではないとわかりますが、それは「暗香」(仄かな香り)が伝わってくるからだといいます。遠くからでも薫りがわかるような人物になりたいとの抱負を述べるものでしょう。