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ティェンタオの自由訳漢詩 2222

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 北宋47ー曽鞏
     西 楼                西 楼

  海浪如雲去却囘   海浪(かいろう)  雲の如く  去って却(ま)た囘(かえ)る
  北風吹起数声雷   北風(ほくふう)  吹き起こす  数声(すうせい)の雷(らい)
  朱楼四面鉤疏箔   朱楼(しゅろう)  四面  疏箔(そはく)を鉤(こう)し
  臥看千山急雨来   臥(ふ)して看る  千山  急雨(きゅうう)の来たるを

  ⊂訳⊃
          浪は雲のように湧き  寄せては引きまた押し寄せる

          北風は激しく吹いて   雷鳴も聞こえてきた

          朱塗の楼を開け放ち  簾を巻きあげて

          雨が山から迫るのを  寝ころんで眺めている


 ⊂ものがたり⊃ 洛陽につどう学者ではありませんが、司馬光と同年に生まれ、亡くなったのも三年早いだけという詩人に曽鞏(そうきょう)がいます。曽鞏(1019ー1083)は建昌南豊(江西省南豊県)の人。若くして文名を知られ、欧陽脩から激賞されました。仁宗の嘉祐二年(1057)、三十九歳で進士に及第し、太平州の司法参軍を振り出しに集賢校理から実録検討になります。
 ついで地方官にもどり、斉・襄・洪・福・明・毫・滄などの知州事を転々とします。司馬遷や韓愈の文体を学び、古文の第一人者と称されました。また。王安石と親しく、欧陽脩を王安石に推挙したこともあります。しかし、のちに新法に反対して相容れぬ仲になりました。晩年、中央にもどり中書舎人になりますが、わずか一年で神宗の元豊六年(1083)に亡くなりました。享年六十五歳です。
 詩題の「西楼」(せいろう)は不明ですが、曽鞏に「甘露寺多景楼」と題する詩があり、多景楼は潤州丹徒(江蘇省鎮江市)の北固山甘露寺内にありました。詩は「甘露寺多景楼」と同時期の作の可能性が高いと思われます。
 当時の潤州は長江の河口近くでしたので、海浪の影響が強かったようです。「疏箔」は粗い網目の簾のことで、それを鈎に掛けて巻き上げているのです。結びの「臥して看る 千山 急雨の来たるを」には、作者の激しい気性と地方官を転々とする官途への鬱屈した気分が感じられます。

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