北宋45ー司馬光
夏日西斎即時 夏日 西斎即時
榴花映葉未全開 榴花(りゅうか) 葉に映じて未(いま)だ全くは開かず
槐影沈沈雨勢来 槐影(かいえい) 沈沈(ちんちん)として雨勢(うせい)来たる
小院地偏人不到 小院(しょういん) 地 偏(へん)にして 人 到らず
満庭鳥迹印蒼苔 満庭(まんてい)の鳥迹(ちょうせき) 蒼苔(そうたい)に印(いん)す
⊂訳⊃
石榴の赤い花が葉に映えて 半分ほど咲いている
槐の木陰は重たく沈み込み 雨の近づくけはいだ
わが庭は辺鄙な所にあって 訪れる人もなく
一面の蒼い苔の上に 鳥の足跡があるだけだ
⊂ものがたり⊃ 邵雍が儒学の改新をはじめたころの洛陽は宋の都汴京とは距離を置く古都で、政事とは離れた学問の場でした。同じころ司馬光(しばこう)も洛陽に隠棲して『資治通鑑』(しじつかん)の執筆に専念していました。
司馬光(1019ー1086)は陝州夏県(山西省夏県)洓水郷の人。幼少のころから人にすぐれ、仁宗の宝元元年(1038)、二十歳で進士に及第します。仁宗・英宗・神宗に仕えて御史中丞になりますが、王安石の新法に反対して職を辞し、洛陽に隠棲しました。
歴史の研究に専念すること十五年間、『資治通鑑』を書き上げて朝廷に献上します。その翌年、神宗が三十八歳の若さで崩じると、新帝哲宗は十歳の幼君でした。そこで祖母、つまり神宗の母の宣仁(せんいん)皇太后が摂政になり、垂簾聴政を行うことになりました。
宣仁太后は王安石をきらい、新法に反対でした。そこで元祐元年(1086)四月、司馬光を召し出して官界に復帰させ、尚書左僕射兼門下侍郎(従三品)に任じました。司馬光は王安石の新法をすべて廃止しますが、八か月の在任で年末に病死します。享年六十八歳です。
詩題の「西斎」(せいさい)は司馬光の洛陽の屋敷の西にあった書斎のことで、書斎での「即時」(たまたま詠んだ詩)ということになります。はじめの二句は書斎から見える庭の叙景で、石榴の花の赤と槐(えんじゅ)の鬱蒼とした木陰を対比しています。
転句の「小院」は小さな中庭のことですが、自宅を謙遜して言っていることになります。家は辺鄙な所にあるので訪れる人もない。だから庭をおおう苔のうえに鳥の足跡があるだけだと、友人に来訪を促している詩になります。
夏日西斎即時 夏日 西斎即時
榴花映葉未全開 榴花(りゅうか) 葉に映じて未(いま)だ全くは開かず
槐影沈沈雨勢来 槐影(かいえい) 沈沈(ちんちん)として雨勢(うせい)来たる
小院地偏人不到 小院(しょういん) 地 偏(へん)にして 人 到らず
満庭鳥迹印蒼苔 満庭(まんてい)の鳥迹(ちょうせき) 蒼苔(そうたい)に印(いん)す
⊂訳⊃
石榴の赤い花が葉に映えて 半分ほど咲いている
槐の木陰は重たく沈み込み 雨の近づくけはいだ
わが庭は辺鄙な所にあって 訪れる人もなく
一面の蒼い苔の上に 鳥の足跡があるだけだ
⊂ものがたり⊃ 邵雍が儒学の改新をはじめたころの洛陽は宋の都汴京とは距離を置く古都で、政事とは離れた学問の場でした。同じころ司馬光(しばこう)も洛陽に隠棲して『資治通鑑』(しじつかん)の執筆に専念していました。
司馬光(1019ー1086)は陝州夏県(山西省夏県)洓水郷の人。幼少のころから人にすぐれ、仁宗の宝元元年(1038)、二十歳で進士に及第します。仁宗・英宗・神宗に仕えて御史中丞になりますが、王安石の新法に反対して職を辞し、洛陽に隠棲しました。
歴史の研究に専念すること十五年間、『資治通鑑』を書き上げて朝廷に献上します。その翌年、神宗が三十八歳の若さで崩じると、新帝哲宗は十歳の幼君でした。そこで祖母、つまり神宗の母の宣仁(せんいん)皇太后が摂政になり、垂簾聴政を行うことになりました。
宣仁太后は王安石をきらい、新法に反対でした。そこで元祐元年(1086)四月、司馬光を召し出して官界に復帰させ、尚書左僕射兼門下侍郎(従三品)に任じました。司馬光は王安石の新法をすべて廃止しますが、八か月の在任で年末に病死します。享年六十八歳です。
詩題の「西斎」(せいさい)は司馬光の洛陽の屋敷の西にあった書斎のことで、書斎での「即時」(たまたま詠んだ詩)ということになります。はじめの二句は書斎から見える庭の叙景で、石榴の花の赤と槐(えんじゅ)の鬱蒼とした木陰を対比しています。
転句の「小院」は小さな中庭のことですが、自宅を謙遜して言っていることになります。家は辺鄙な所にあるので訪れる人もない。だから庭をおおう苔のうえに鳥の足跡があるだけだと、友人に来訪を促している詩になります。