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ティェンタオの自由訳漢詩 2212

 北宋37ー欧陽脩
    晩泊岳陽              晩に岳陽に泊す

  臥聞岳陽城裏鐘   臥(ふ)して聞く   岳陽城裏(がくようじょうり)の鐘(かね)
  繋舟岳陽城下樹   舟を繋(つな)ぐ  岳陽城下の樹(き)
  正見空江明月来   正(まさ)に見る  空江(くうこう)に明月の来たるを
  雲水蒼茫失江路   雲水(うんすい)  蒼茫(そうぼう)として  江路(こうろ)を失う
  夜深江月弄清輝   夜(よる)深くして  江月(こうげつ)  清輝(せいき)を弄(ろう)し
  水上人歌月下帰   水上(すいじょう)  人は歌って月下(げっか)に帰る
  一闋声長聴不尽   一闋(いっき)の声(こえ)長くして  聴けども尽きず
  軽舟短楫去如飛   軽舟(けいしゅう)  短楫(たんしょう)  去って飛ぶが如し

  ⊂訳⊃
          岳陽城下   舟を岸辺の樹につなぎ
          横になって   城内の鐘の音を聞く
          折から月が  皓々と江上にさし昇り
          雲も水も    果てしなく広がって行く手を見失う
          世はふけて  清らかな月の光が川面に照り映え
          月下の江上  舟人は歌を唄いながら家路をたどる
          その歌声のひと節が  まだ消えないでいるうちに
          小舟は櫂を動かして  飛ぶように漕ぎ去った


 ⊂ものがたり⊃ 欧陽脩(おうようしゅう:1007ー1072)は吉州廬陵(江西省吉安市)の人。四歳で父を亡くし苦学して仁宗の天聖八年(1030)、二十四歳のときに首席で進士に及第しました。地方勤務のあと召されて諌院にいり、右正言をへて知制誥になります。
 革新派の官僚として活躍し、文芸方面では古文の復興に努めますが、革新派の高官が左遷されるのに抗議したため、景祐四年(1037)、三十一歳のときに夷陵(湖北省宜昌市)の県令に流されます。そのご滁州(安徽省滁州市)刺史などを歴任し、赦されて翰林侍読学士になります。嘉祐二年(1057)に知貢挙(省試の責任者)に任じられ、梅堯臣を参詳官に用いて志のある新人の採用につとめます。そのときの及第者に蘇軾らがいました。
 嘉祐六年(1061)、五十五歳で参知政事(副宰相)になりますが、神宗が即位すると王安石の改革に反対。治平四年(1067)、六十一歳で職を辞し潁州に隠棲します。神宗の煕寧五年(1072)、潁州でなくなり、享年六十六歳です。
 詩題の「岳陽」(がくよう)は岳州(湖南省岳陽市)の州府のある街。長江を250㌔㍍ほど遡ったところに夷陵がありますので、夷陵の県令に左遷されて任地に赴くときの作品でしょう。岳陽城は唐代に多くの詩人が訪れて名作を残した詩跡ですが、著名な詩跡の地にやってきたという感慨は微塵もなく、詩は寂寥の感に満ちています。
 比喩を求める必要もありませんが、四句目「雲水 蒼茫として 江路を失う」は将来への希望を失った不安の告白とみることもできます。尾聯の「一闋の声長くして」の闋は終わるという意味で、声のひと区切り、歌声を長く伸ばして唄うひと節の区切りでしょう。「短楫」(短い楫)は櫂のこと。結びの二句は哀愁と動きを兼ねそなえた佳句と称されています。

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