北宋37ー欧陽脩
晩泊岳陽 晩に岳陽に泊す
臥聞岳陽城裏鐘 臥(ふ)して聞く 岳陽城裏(がくようじょうり)の鐘(かね)
繋舟岳陽城下樹 舟を繋(つな)ぐ 岳陽城下の樹(き)
正見空江明月来 正(まさ)に見る 空江(くうこう)に明月の来たるを
雲水蒼茫失江路 雲水(うんすい) 蒼茫(そうぼう)として 江路(こうろ)を失う
夜深江月弄清輝 夜(よる)深くして 江月(こうげつ) 清輝(せいき)を弄(ろう)し
水上人歌月下帰 水上(すいじょう) 人は歌って月下(げっか)に帰る
一闋声長聴不尽 一闋(いっき)の声(こえ)長くして 聴けども尽きず
軽舟短楫去如飛 軽舟(けいしゅう) 短楫(たんしょう) 去って飛ぶが如し
⊂訳⊃
岳陽城下 舟を岸辺の樹につなぎ
横になって 城内の鐘の音を聞く
折から月が 皓々と江上にさし昇り
雲も水も 果てしなく広がって行く手を見失う
世はふけて 清らかな月の光が川面に照り映え
月下の江上 舟人は歌を唄いながら家路をたどる
その歌声のひと節が まだ消えないでいるうちに
小舟は櫂を動かして 飛ぶように漕ぎ去った
⊂ものがたり⊃ 欧陽脩(おうようしゅう:1007ー1072)は吉州廬陵(江西省吉安市)の人。四歳で父を亡くし苦学して仁宗の天聖八年(1030)、二十四歳のときに首席で進士に及第しました。地方勤務のあと召されて諌院にいり、右正言をへて知制誥になります。
革新派の官僚として活躍し、文芸方面では古文の復興に努めますが、革新派の高官が左遷されるのに抗議したため、景祐四年(1037)、三十一歳のときに夷陵(湖北省宜昌市)の県令に流されます。そのご滁州(安徽省滁州市)刺史などを歴任し、赦されて翰林侍読学士になります。嘉祐二年(1057)に知貢挙(省試の責任者)に任じられ、梅堯臣を参詳官に用いて志のある新人の採用につとめます。そのときの及第者に蘇軾らがいました。
嘉祐六年(1061)、五十五歳で参知政事(副宰相)になりますが、神宗が即位すると王安石の改革に反対。治平四年(1067)、六十一歳で職を辞し潁州に隠棲します。神宗の煕寧五年(1072)、潁州でなくなり、享年六十六歳です。
詩題の「岳陽」(がくよう)は岳州(湖南省岳陽市)の州府のある街。長江を250㌔㍍ほど遡ったところに夷陵がありますので、夷陵の県令に左遷されて任地に赴くときの作品でしょう。岳陽城は唐代に多くの詩人が訪れて名作を残した詩跡ですが、著名な詩跡の地にやってきたという感慨は微塵もなく、詩は寂寥の感に満ちています。
比喩を求める必要もありませんが、四句目「雲水 蒼茫として 江路を失う」は将来への希望を失った不安の告白とみることもできます。尾聯の「一闋の声長くして」の闋は終わるという意味で、声のひと区切り、歌声を長く伸ばして唄うひと節の区切りでしょう。「短楫」(短い楫)は櫂のこと。結びの二句は哀愁と動きを兼ねそなえた佳句と称されています。
晩泊岳陽 晩に岳陽に泊す
臥聞岳陽城裏鐘 臥(ふ)して聞く 岳陽城裏(がくようじょうり)の鐘(かね)
繋舟岳陽城下樹 舟を繋(つな)ぐ 岳陽城下の樹(き)
正見空江明月来 正(まさ)に見る 空江(くうこう)に明月の来たるを
雲水蒼茫失江路 雲水(うんすい) 蒼茫(そうぼう)として 江路(こうろ)を失う
夜深江月弄清輝 夜(よる)深くして 江月(こうげつ) 清輝(せいき)を弄(ろう)し
水上人歌月下帰 水上(すいじょう) 人は歌って月下(げっか)に帰る
一闋声長聴不尽 一闋(いっき)の声(こえ)長くして 聴けども尽きず
軽舟短楫去如飛 軽舟(けいしゅう) 短楫(たんしょう) 去って飛ぶが如し
⊂訳⊃
岳陽城下 舟を岸辺の樹につなぎ
横になって 城内の鐘の音を聞く
折から月が 皓々と江上にさし昇り
雲も水も 果てしなく広がって行く手を見失う
世はふけて 清らかな月の光が川面に照り映え
月下の江上 舟人は歌を唄いながら家路をたどる
その歌声のひと節が まだ消えないでいるうちに
小舟は櫂を動かして 飛ぶように漕ぎ去った
⊂ものがたり⊃ 欧陽脩(おうようしゅう:1007ー1072)は吉州廬陵(江西省吉安市)の人。四歳で父を亡くし苦学して仁宗の天聖八年(1030)、二十四歳のときに首席で進士に及第しました。地方勤務のあと召されて諌院にいり、右正言をへて知制誥になります。
革新派の官僚として活躍し、文芸方面では古文の復興に努めますが、革新派の高官が左遷されるのに抗議したため、景祐四年(1037)、三十一歳のときに夷陵(湖北省宜昌市)の県令に流されます。そのご滁州(安徽省滁州市)刺史などを歴任し、赦されて翰林侍読学士になります。嘉祐二年(1057)に知貢挙(省試の責任者)に任じられ、梅堯臣を参詳官に用いて志のある新人の採用につとめます。そのときの及第者に蘇軾らがいました。
嘉祐六年(1061)、五十五歳で参知政事(副宰相)になりますが、神宗が即位すると王安石の改革に反対。治平四年(1067)、六十一歳で職を辞し潁州に隠棲します。神宗の煕寧五年(1072)、潁州でなくなり、享年六十六歳です。
詩題の「岳陽」(がくよう)は岳州(湖南省岳陽市)の州府のある街。長江を250㌔㍍ほど遡ったところに夷陵がありますので、夷陵の県令に左遷されて任地に赴くときの作品でしょう。岳陽城は唐代に多くの詩人が訪れて名作を残した詩跡ですが、著名な詩跡の地にやってきたという感慨は微塵もなく、詩は寂寥の感に満ちています。
比喩を求める必要もありませんが、四句目「雲水 蒼茫として 江路を失う」は将来への希望を失った不安の告白とみることもできます。尾聯の「一闋の声長くして」の闋は終わるという意味で、声のひと区切り、歌声を長く伸ばして唄うひと節の区切りでしょう。「短楫」(短い楫)は櫂のこと。結びの二句は哀愁と動きを兼ねそなえた佳句と称されています。