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ティェンタオの自由訳漢詩 2199

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 北宋24ー梅堯臣
   魯山山行            魯山の山行

  適与野情愜     適(まさ)しく  野情(やじょう)と愜(かな)い
  千山高復低     千山(せんざん) 高く復(ま)た低し
  好峰随処改     好峰(こうほう)  随処(ずいしょ)に改まり
  幽径独行迷     幽径(ゆうけい)  独り行きて迷う
  霜落熊升樹     霜落ちて  熊  樹(き)に升(のぼ)り
  林空鹿飲渓     林空しく  鹿  渓(たに)に飲む
  人家在何許     人家(じんか)   何許(いずく)にか在る
  雲外一声鶏     雲外(うんがい)  一声(いっせい)の鶏(けい)

  ⊂訳⊃
          野山をい慕う心にぴったりだ
          山は高く低くつらなっている
          行くほどに  峰のかたちは姿を変え
          奥深い径を  ひとり歩けば迷いそうだ
          霜が降ると  熊は木にのぼって実をとり
          冬枯の林で  鹿は谷川の水を飲む
          こんな山奥に  人家があるのかと見わたせば
          雲のかなたに  一声高く鶏の声


 ⊂ものがたり⊃ 范仲淹の政事改革に参画しながら士大夫としての詩にめざめ、宋代の新しい詩を開くことになるのは梅堯臣(ばいぎょうしん)、蘇舜欽、欧陽脩です。
 梅堯臣(1002ー1060)は宣州宛陵(安徽省宣城県)の人。真宗の咸平五年(1002)に生まれ、役人を出す家柄の出ではありませんでした。叔父が政府高官になったため、その恩蔭によって太廟の斎郎になります。科挙に及第しておらず、県の主簿や県令などを転々とします。詩名ははやくから聞こえ、仁宗の慶暦年間(1041ー1048)、四十歳を過ぎてから進士出身の資格を与えられました。
 嘉祐二年(1057)に欧陽脩が知貢挙(省試の責任者)に任じられたとき、欧陽脩は梅堯臣を省試の参詳官に用いました。省試を通じて人材の発掘につとめ、そのなかに蘇軾もいました。そのご国子監直講などになりますが、仁宗の嘉祐五年(1060)、都で流行した疫病にかかって亡くなりました。享年五十九歳です。梅堯臣は後世「宋代一代の面目を聞く者は、梅堯臣、蘇舜欽にはじまる」と称せられます。
 詩題の「魯山」は露山ともいい、河南省魯山県の北東にある山です。県令をしていた三十九歳のときの作品とされています。五言律詩、はじめの二句で「山行」(さんこう)の場を設定します。「野情」は自然を愛する心です。中四句で山中の景を描きますが、「幽径 独り行きて迷う」には孤独を嘆く気持ちがこめられているかも知れません。熊や鹿も人生をひとり行く身の比喩ともとれ、その孤独感が「雲外 一声の鶏」によって山中に人家のあることを知る喜びにつながるのでしょう。

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