北宋23ー范仲淹
漁家傲 漁家傲
塞下秋来風景異 塞下(さいか) 秋来(しゅうらい) 風景異(こと)なり
衡陽雁去無留意 衡陽(こうよう) 雁(がん)去って留まるの意(い)無し
四面辺声連角起 四面(しめん)の辺声(へんせい) 角(かく)に連って起こる
千嶂裏 千嶂(せんしょう)の裏(うち)
長煙落日孤城閉 長煙(ちょうえん) 落日 孤城(こじょう)閉ず
濁酒一杯家万里 濁酒(だくしゅ)一杯 家万里(ばんり)
燕然未勒帰無計 燕然(えんぜん) 未(いま)だ勒(ろく)せず 帰るに計(けい)無し
羌管悠悠霜満地 羌管(きょうかん) 悠悠(ゆうゆう) 霜 地に満つ
人不寐 人 寐(い)ねず
将軍白髪征夫涙 将軍 白髪(はくはつ) 征夫(せいふ) 涙す
⊂訳⊃
国境の塞に秋が来て 都とはちがう眺めだ
雁は衡陽へ飛び去り とどまろうとしない
辺境の物音が 角笛の音といっしょに湧きおこる
千嶂の山のつづくなか
靄は立ちこめ 夕陽は沈み 孤城は門を閉じている
濁り酒を傾けながら 遠いわが家を思う
燕然山は占領できず 帰ることなどおぼつかない
羌笛は寂しくひびき 霜は地上に満ちわたる
人びとは眠れないまま
将軍は白髪になり 兵士は涙を流すのだ
⊂ものがたり⊃ 真宗の末に詩壇の主流を占めていたのは西崑派でした。西崑派の銭惟演(せんいえん)が洛陽の長官をしていたころ、その部下に梅堯臣と欧陽脩がいました。二人は勧められて西崑派の詩を作ったこともあったと思います。
仁宗のはじめ宰相の呂夷簡(りょいかん)が政府を領導していましたが、政事は腐敗し貧富の差がひろがっていました。若手官僚の一部に改革の意識が芽生え、范仲淹(はんちゅうえん)は改革派の指導的立場にいました。范仲淹は人材の発掘につとめ、そのなかに蘇舜欽がいました。
政事改革を求める人々のあいだから古文復興運動がおこり、詩壇では西崑派の詩が徹底的に批判されます。西崑派の近くにいた梅堯臣と欧陽脩も西崑派の詩に疑問を感じるようになり、政事的にも范仲淹や蘇舜欽に近づいていきます。政事改革と古文復興運動のうねりのなかから宋代の新しい詩が生まれてきます。范仲淹は改革派のリーダーとして若手官僚の育成につとめますが、詩人としては詞が知られています。
范仲淹(989ー1052)は平江呉県(江蘇省蘇州市)の人。真宗の大中祥符八年(1015)に二十七歳で進士に及第し、秘閣校理になります。つねに天下のことを論じ、士大夫の気節をたっとぶ宋代の風は范仲淹にはじまるといわれています。仁宗のとき首都開封府の権知府事になりますが、保守派とあわず饒州(江蘇省)の知州事に左遷されます。
西北でチベット系タングート族の李元昊(りげんこう)が叛くと、陝西経略安撫招討副使として辺境防衛の前線に立ちます。やがて枢密副使から参知政事にすすみ将来を期待されますが、官吏の堕落を厳しく取り締まったことから河東・陝西の宣撫使に左遷されます。仁宗の皇裕四年(1052)、潁州(安徽省阜陽市)の任地に赴こうとしていたとき、病で亡くなりました。享年六十四歳です。
詩題の「漁家傲」(ぎょかごう)は漁師の誇りが高いという意味で、漁師の生活を歌う小唄の曲を借りた替え歌です。実際の内容は辺塞詩の伝統をつぐ詞で、辺境防衛の前線で宴会が催されたときに発表されたものでしょう。わかりやすい詞で、「燕然」は山の名。古来胡族の根拠地として象徴的に用いられました。ここでは辺境防衛の決意を述べますが、現実には羌笛が「悠悠」(愁えるさま)と流れ、霜は地に落ち、故郷を思って眠れない夜がつづきます。辺塞の苦しみは将軍も兵を同じだと詠うのです。
漁家傲 漁家傲
塞下秋来風景異 塞下(さいか) 秋来(しゅうらい) 風景異(こと)なり
衡陽雁去無留意 衡陽(こうよう) 雁(がん)去って留まるの意(い)無し
四面辺声連角起 四面(しめん)の辺声(へんせい) 角(かく)に連って起こる
千嶂裏 千嶂(せんしょう)の裏(うち)
長煙落日孤城閉 長煙(ちょうえん) 落日 孤城(こじょう)閉ず
濁酒一杯家万里 濁酒(だくしゅ)一杯 家万里(ばんり)
燕然未勒帰無計 燕然(えんぜん) 未(いま)だ勒(ろく)せず 帰るに計(けい)無し
羌管悠悠霜満地 羌管(きょうかん) 悠悠(ゆうゆう) 霜 地に満つ
人不寐 人 寐(い)ねず
将軍白髪征夫涙 将軍 白髪(はくはつ) 征夫(せいふ) 涙す
⊂訳⊃
国境の塞に秋が来て 都とはちがう眺めだ
雁は衡陽へ飛び去り とどまろうとしない
辺境の物音が 角笛の音といっしょに湧きおこる
千嶂の山のつづくなか
靄は立ちこめ 夕陽は沈み 孤城は門を閉じている
濁り酒を傾けながら 遠いわが家を思う
燕然山は占領できず 帰ることなどおぼつかない
羌笛は寂しくひびき 霜は地上に満ちわたる
人びとは眠れないまま
将軍は白髪になり 兵士は涙を流すのだ
⊂ものがたり⊃ 真宗の末に詩壇の主流を占めていたのは西崑派でした。西崑派の銭惟演(せんいえん)が洛陽の長官をしていたころ、その部下に梅堯臣と欧陽脩がいました。二人は勧められて西崑派の詩を作ったこともあったと思います。
仁宗のはじめ宰相の呂夷簡(りょいかん)が政府を領導していましたが、政事は腐敗し貧富の差がひろがっていました。若手官僚の一部に改革の意識が芽生え、范仲淹(はんちゅうえん)は改革派の指導的立場にいました。范仲淹は人材の発掘につとめ、そのなかに蘇舜欽がいました。
政事改革を求める人々のあいだから古文復興運動がおこり、詩壇では西崑派の詩が徹底的に批判されます。西崑派の近くにいた梅堯臣と欧陽脩も西崑派の詩に疑問を感じるようになり、政事的にも范仲淹や蘇舜欽に近づいていきます。政事改革と古文復興運動のうねりのなかから宋代の新しい詩が生まれてきます。范仲淹は改革派のリーダーとして若手官僚の育成につとめますが、詩人としては詞が知られています。
范仲淹(989ー1052)は平江呉県(江蘇省蘇州市)の人。真宗の大中祥符八年(1015)に二十七歳で進士に及第し、秘閣校理になります。つねに天下のことを論じ、士大夫の気節をたっとぶ宋代の風は范仲淹にはじまるといわれています。仁宗のとき首都開封府の権知府事になりますが、保守派とあわず饒州(江蘇省)の知州事に左遷されます。
西北でチベット系タングート族の李元昊(りげんこう)が叛くと、陝西経略安撫招討副使として辺境防衛の前線に立ちます。やがて枢密副使から参知政事にすすみ将来を期待されますが、官吏の堕落を厳しく取り締まったことから河東・陝西の宣撫使に左遷されます。仁宗の皇裕四年(1052)、潁州(安徽省阜陽市)の任地に赴こうとしていたとき、病で亡くなりました。享年六十四歳です。
詩題の「漁家傲」(ぎょかごう)は漁師の誇りが高いという意味で、漁師の生活を歌う小唄の曲を借りた替え歌です。実際の内容は辺塞詩の伝統をつぐ詞で、辺境防衛の前線で宴会が催されたときに発表されたものでしょう。わかりやすい詞で、「燕然」は山の名。古来胡族の根拠地として象徴的に用いられました。ここでは辺境防衛の決意を述べますが、現実には羌笛が「悠悠」(愁えるさま)と流れ、霜は地に落ち、故郷を思って眠れない夜がつづきます。辺塞の苦しみは将軍も兵を同じだと詠うのです。