Quantcast
Channel: 漢詩を楽しもう
Viewing all articles
Browse latest Browse all 554

ティェンタオの自由訳漢詩 2194

$
0
0
 北宋19ー柳永
    雨林鈴               雨林鈴        (上片八句)

  寒蝉淒切        寒蝉(かんせん)  淒切(せいせつ)たり
  対長亭晩驟雨初歇  長亭(ちょうてい)の晩(くれ)  驟雨(しゅうう)  初めて歇(や)むに対す
  都門帳飲無緒     都門(ともん)に帳飲(ちょういん)して  緒(こころ)無く
  留恋処蘭舟催発    留恋(りゅうれん)する処  蘭舟(らんしゅう)  発するを催(うなが)す
  執手相看涙眼     手を執(と)り  相看(あいみ)て眼(まなこ)に涙し
  竟無語凝噎       竟(つい)に語ること無く   凝噎(ぎょうえつ)す
  念去去千里煙波    念(おも)う  去(ゆ)き去く  千里の煙波(えんぱ)
  暮靄沈沈楚天闊    暮靄(ぼあい)沈沈(ちんちん)として  楚天(そてん)の闊(ひろ)きを

  ⊂訳⊃
          秋の蝉  蜩の声はもの悲しい
          日暮れの宿駅で  やんだばかりの雨にむかいあう
          城門に近い所で  酒を飲むが気分はのらず
          なごりを惜しんでいると   船出の合図がある
          手を取って見詰め合えば  涙はあふれ
          なにもいえずに  むせび泣く
          思えばこれから  靄に包まれた千里の波の上をゆく
          楚地の広い空に  夕靄は重く立ちこめているだろう


 ⊂ものがたり⊃ 乾興元年(1022)二月、真宗が五十五歳で崩じると、太子の趙禎(ちょうてい)が即位して第四代仁宗の世になります。仁宗の在位は四十一年に及び、宋は空前の繁栄期を迎えます。都汴京の街は活気にあふれ、さまざまな市民文化がめばえ、娯楽が栄えます。そんななか地方から出てきたひとりの若者が都会の文化に魅了され、詞の分野できわだった才能を発揮します。それが柳永(りゅうえい)です。
 柳永(987?ー1053?)は崇安(福建省崇安県)の人。地方役人の家に生まれ、十代の末に科挙を受験するために上京しますが、都で市民文化に触れると歌や踊りに熱中するようになります。科挙に及第できず、楽人や歌妓のために詞をつくって流行作家になります。活躍は汴京にとどまらず、平江(蘇州)や杭州などに流寓し詩人としてもてはやされます。「詩は杜詩に学ぶべし、詞は柳詞を学ぶべし」といわれるほどでした。
 仁宗の景裕元年(1034)、四十八歳のころ改めて進士に挑戦し、及第して工部屯田司員外郎になりますが、辞して野にもどりました。仁宗の皇裕五年(1053)ころに亡くなり、享年六十七歳くらいです。その墓は二三か所あり、評判の高さを物語っています。
 詩題の「雨霖鈴」(うりんれい)は唐代からある曲の名で、詞は市民の好みを反映して長篇になり、慢詞と称されます。宴会などの場で音楽の伴奏つきで詠われるようになり、演劇的な要素をおびてきます。
 「雨霖鈴」はある役人が転勤することになり、馴染みの妓女と別れて旅立つ場面を設定し、同じ曲で二節を歌う双調です。上片八句は前後二段にわかれ、それぞれの場面と思い入れを構成します。
 「寒蝉」は秋の蝉、ひぐらしでしょう。「長亭」は十里ごとに置かれている官用の宿駅で、この語が出ると別れのイメージを誘うことになります。蝉の鳴く晩秋の宿舎、「驟雨」(にわか雨)が過ぎたばかりです。そこは「都門」(街の入口)に近い場末で、酒を飲んでも気勢があがりません。なごりを惜しんでいると出船の合図が聞こえてきたというのが前段です。後段はいよいよ別れのときが来たと手を取り合って「凝噎」(むせび泣く)します。そして行く先の楚地を思って溜め息をもらすのです。    

Viewing all articles
Browse latest Browse all 554

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>