北宋16ー劉筠
館中新蝉 館中の新蝉
庭中嘉樹発華滋 庭中(ていちゅう)の嘉樹(かじゅ) 華(はな)を発(ひら)くこと滋(しげ)く
可要螳蜋共此時 螳蜋(とうろう)の 此の時を共にするを 要す可(べ)けんや
翼薄乍舒宮女鬢 翼(よく)薄くして 乍(たちま)ち舒(の)ぶ 宮女の鬢(びん)
蛻軽全解羽人尸 蛻(ぜい)軽くして 全(まった)く解す 羽人(うじん)の尸(し)
風来玉樹烏先転 風 玉樹(ぎょくじゅ)に来たれば 烏 先(ま)ず転(うつ)り
露下金莖鶴未知 露 金莖(きんけい)に下るも 鶴 未(いま)だ知らず
日永声長兼夜思 日永く 声長くして 兼ねて夜思う
肯容潘岳到秋悲 肯(あ)えて潘岳(はんがく)の 秋に到って悲しむを容(ゆる)さんや
⊂訳⊃
庭の樹々は 花ざかり
こんなとき 蟷螂が出てくるのはお断りだ
蝉の翅は薄く 伸ばせば宮女の鬢のよう
抜け殻は軽く 仙人の尸解のようだ
風が吹けば 烏は樹から真っ先に逃げだし
露が降りても 鶴は承露盤をご存じない
夏の日永を鳴きつづけ 夜はもの思いにしずみ
潘岳のように 秋を悲しむこともない
⊂ものがたり⊃ 劉筠(りゅういん)は生没年不詳ですが、真宗の大中祥符末年(1016)ころまでの在世が認められます。魏州大名(河北省大名県)の人で、進士に及第して館陶県の県尉をしていたとき楊億に認められ、秘閣校理になります。
累進して翰林学士になったとき、詔勅の起草をめぐって不満があり、希望して廬州(安徽省合肥県)の知州事になります。そのご召されて翰林学士承旨になりますが、再び廬州に出てその地で亡くなりました。楊億とならぶ西崑派の中心人物で「楊劉」と並称されます。
詩題の「館」(かん)は館閣のことで、政府要職者の執務する建物です。その庭で鳴いている「新蝉」(しんぜん:成虫になったばかりの蝉)を詠います。詠物詩の技法で各句の主語は「新蝉」です。第一句は蝉のいる場所。夏に花の咲く木はすくないはずですが、華やかな舞台が設定されています。
「螳蜋」(かまきり)は『説苑』にでてくる説話で、蟷螂が蝉を捕らえて食べることをいいます。だから「此の時を共にする」のはお断わりだというのです。「翼」は蝉の翅。鬢の髪を蝉の羽根のように薄く広げる髪形があって「蝉鬢」といったようです。
「蛻」は抜け殻のこと。蝉は脱蛻して世外に超然とするという比喩が好まれていました。「羽人」は羽根の生えた仙人のことで、「尸」は尸解のこと。道士が仙人となって魂が昇天するとき、あとに残す肉体をいいます。
つぎの二句は烏と鶴のことを言っているようにみえますが、風が吹いても蝉は烏のように逃げ出さないこと、露が降ると鶴は場所を移しますが、蝉は露を飲んで清潔に生きていることをいいます。「金莖」は漢の武帝の承露盤が載っていた通天莖台のことで、露を受ける台です。なお、「風来」「露下」の二句は、当時すぐれた対句としてもてはやされました。
「日永」の句も蝉のことで、夏の長い日中を鳴きつづけた蝉は、夜になると静かにもの思いにふけっていると詠います。結句の「潘岳」は晋の詩人で、美男子として知られていました。妻を亡くした悲しみを詠う「悼亡」の詩が有名ですが、蝉は秋がきて死が間近にせまっても悲しんだりしないと、全句が蝉を褒め上げる詩になっています。
館中新蝉 館中の新蝉
庭中嘉樹発華滋 庭中(ていちゅう)の嘉樹(かじゅ) 華(はな)を発(ひら)くこと滋(しげ)く
可要螳蜋共此時 螳蜋(とうろう)の 此の時を共にするを 要す可(べ)けんや
翼薄乍舒宮女鬢 翼(よく)薄くして 乍(たちま)ち舒(の)ぶ 宮女の鬢(びん)
蛻軽全解羽人尸 蛻(ぜい)軽くして 全(まった)く解す 羽人(うじん)の尸(し)
風来玉樹烏先転 風 玉樹(ぎょくじゅ)に来たれば 烏 先(ま)ず転(うつ)り
露下金莖鶴未知 露 金莖(きんけい)に下るも 鶴 未(いま)だ知らず
日永声長兼夜思 日永く 声長くして 兼ねて夜思う
肯容潘岳到秋悲 肯(あ)えて潘岳(はんがく)の 秋に到って悲しむを容(ゆる)さんや
⊂訳⊃
庭の樹々は 花ざかり
こんなとき 蟷螂が出てくるのはお断りだ
蝉の翅は薄く 伸ばせば宮女の鬢のよう
抜け殻は軽く 仙人の尸解のようだ
風が吹けば 烏は樹から真っ先に逃げだし
露が降りても 鶴は承露盤をご存じない
夏の日永を鳴きつづけ 夜はもの思いにしずみ
潘岳のように 秋を悲しむこともない
⊂ものがたり⊃ 劉筠(りゅういん)は生没年不詳ですが、真宗の大中祥符末年(1016)ころまでの在世が認められます。魏州大名(河北省大名県)の人で、進士に及第して館陶県の県尉をしていたとき楊億に認められ、秘閣校理になります。
累進して翰林学士になったとき、詔勅の起草をめぐって不満があり、希望して廬州(安徽省合肥県)の知州事になります。そのご召されて翰林学士承旨になりますが、再び廬州に出てその地で亡くなりました。楊億とならぶ西崑派の中心人物で「楊劉」と並称されます。
詩題の「館」(かん)は館閣のことで、政府要職者の執務する建物です。その庭で鳴いている「新蝉」(しんぜん:成虫になったばかりの蝉)を詠います。詠物詩の技法で各句の主語は「新蝉」です。第一句は蝉のいる場所。夏に花の咲く木はすくないはずですが、華やかな舞台が設定されています。
「螳蜋」(かまきり)は『説苑』にでてくる説話で、蟷螂が蝉を捕らえて食べることをいいます。だから「此の時を共にする」のはお断わりだというのです。「翼」は蝉の翅。鬢の髪を蝉の羽根のように薄く広げる髪形があって「蝉鬢」といったようです。
「蛻」は抜け殻のこと。蝉は脱蛻して世外に超然とするという比喩が好まれていました。「羽人」は羽根の生えた仙人のことで、「尸」は尸解のこと。道士が仙人となって魂が昇天するとき、あとに残す肉体をいいます。
つぎの二句は烏と鶴のことを言っているようにみえますが、風が吹いても蝉は烏のように逃げ出さないこと、露が降ると鶴は場所を移しますが、蝉は露を飲んで清潔に生きていることをいいます。「金莖」は漢の武帝の承露盤が載っていた通天莖台のことで、露を受ける台です。なお、「風来」「露下」の二句は、当時すぐれた対句としてもてはやされました。
「日永」の句も蝉のことで、夏の長い日中を鳴きつづけた蝉は、夜になると静かにもの思いにふけっていると詠います。結句の「潘岳」は晋の詩人で、美男子として知られていました。妻を亡くした悲しみを詠う「悼亡」の詩が有名ですが、蝉は秋がきて死が間近にせまっても悲しんだりしないと、全句が蝉を褒め上げる詩になっています。