北宋15ー楊億
漢 武 漢 武
蓬萊銀闕浪漫漫 蓬萊(ほうらい)の銀闕(ぎんけつ) 浪 漫漫(まんまん)
弱水囘風欲到難 弱水(じゃくすい) 囘風(かいふう) 到らんと欲するも難(かた)し
光照竹宮労夜拝 光は 竹宮(ちくきゅう)を照らして 夜拝(やはい)を労(ろう)し
露溥金掌費朝餐 露は 金掌(きんしょう)に溥(あまね)く 朝餐(ちょうさん)に費(ついや)す
力通青海求龍種 力は 青海(せいかい)に通じて 龍種(りょうしゅ)を求め
死諱文成食馬肝 死は 文成(ぶんせい)を諱(さ)けて 馬肝(ばかん)を食(くら)うと
待詔先生歯編貝 詔(しょう)を待つ先生 歯は貝を編(あ)む
忍令索米向長安 米(こめ)を索(もと)めて 長安に向かわ令(し)むるに忍びんや
⊂訳⊃
蓬萊山の神仙の宮は 海上はるか
海と疾風に阻まれて 行くのはむずかしい
天から降る夜の光を 竹宮から遥かに拝し
仙人掌で集めた露を 朝ごとにお飲みになる
遠く青海の果てに 兵を発して名馬をもとめ
文成将軍を殺して 馬の肝を食べて死んだとおっしゃる
東方朔の歯並びは 貝を編んだように美しいが
飢えて長安の街を 歩くようなことはご免と嘆願させる
⊂ものがたり⊃ 第三代真宗の時代(997ー1021)に政事は安定し、経済が発展しはじめます。それにともなって新しい文化が芽生えてきます。詩の分野でまず登場するのは、楊億(ようおく)、劉筠、銭惟演ら西崑派(せいこんは)の詩人です。
三人は秘書閣(帝室図書館)の同僚であったころ詩を応酬しあい、大中祥府元年(1008)に『西崑酬唱集』を発表しました。その詩風は西崑体と称され、初期の宋詩に一時代を画します。西崑派の詩人は政府高官が多く、典故を多用した詩を作って知識を顕示する傾向がありました。晩唐の李商隠を学び、華麗な措辞によって暗示的、象徴的な詩風を生み出しました。「西崑」は崑崙山の群玉山策府(仙界の書庫)を意味します。
楊億(974ー1020)は建州浦城(福建省浦城県)の人。太祖の開宝七年(974)、南唐滅亡の前年に閩地の北辺で生まれました。才能を認められて、十一歳のときに秘書省正字の官を授けられました。十九歳で進士出身の資格を与えられ、真宗のとき翰林学士兼史館修撰になり、『太宗実録』の編纂などに腕を振るいました。真宗の天禧四年(1020)に亡くなり、享年四十七歳でした。
詩題の「漢武」(かんぶ)は漢の武帝のことです。詩中に「漢武」の語を用いず、すべての句で武帝の行状を皮肉まじりに詠います。「蓬萊」は東の海上にあるという伝説の神山(島)で、「銀闕」は仙人のいる宮殿です。「弱水」は蓬萊山へ通じる海で、はじめの二句は武帝が不老長寿の仙薬を求めたことをいいます。
「竹宮」は『漢書』礼楽志に典故があり、正月上辛の日に神仙を祭ると神光が流星のように祠壇にあつまり、武帝はそれを竹宮から望拝したといいます。「金掌」は武帝が作らせた掌露銅盤(しょうろどうばん)のことで、上に仙人掌があり、それで受けた露に玉屑を混ぜて飲んだといいます。以上四句は武帝が方士の言を信じて不老長生に心がけたことを皮肉るものです。
「龍種」は武帝が西域に兵を発して大宛の善馬数十頭を得たことをいいます。「文成」は方士李少君(りしょうくん)のことで、文成将軍の位を与えましたが、のちに誅しました。そしてあれは馬の肝を食べて死んだのだと誤魔化したそうです。「待詔先生」は東方朔のことで、歯並びが美しかったけれど俸禄が少なかったといいます。だから献策が採用されなくても俸禄だけは削らないでほしいと嘆願したそうです。すべての句で武帝が愚かな帝王であったことを詠っています。
漢 武 漢 武
蓬萊銀闕浪漫漫 蓬萊(ほうらい)の銀闕(ぎんけつ) 浪 漫漫(まんまん)
弱水囘風欲到難 弱水(じゃくすい) 囘風(かいふう) 到らんと欲するも難(かた)し
光照竹宮労夜拝 光は 竹宮(ちくきゅう)を照らして 夜拝(やはい)を労(ろう)し
露溥金掌費朝餐 露は 金掌(きんしょう)に溥(あまね)く 朝餐(ちょうさん)に費(ついや)す
力通青海求龍種 力は 青海(せいかい)に通じて 龍種(りょうしゅ)を求め
死諱文成食馬肝 死は 文成(ぶんせい)を諱(さ)けて 馬肝(ばかん)を食(くら)うと
待詔先生歯編貝 詔(しょう)を待つ先生 歯は貝を編(あ)む
忍令索米向長安 米(こめ)を索(もと)めて 長安に向かわ令(し)むるに忍びんや
⊂訳⊃
蓬萊山の神仙の宮は 海上はるか
海と疾風に阻まれて 行くのはむずかしい
天から降る夜の光を 竹宮から遥かに拝し
仙人掌で集めた露を 朝ごとにお飲みになる
遠く青海の果てに 兵を発して名馬をもとめ
文成将軍を殺して 馬の肝を食べて死んだとおっしゃる
東方朔の歯並びは 貝を編んだように美しいが
飢えて長安の街を 歩くようなことはご免と嘆願させる
⊂ものがたり⊃ 第三代真宗の時代(997ー1021)に政事は安定し、経済が発展しはじめます。それにともなって新しい文化が芽生えてきます。詩の分野でまず登場するのは、楊億(ようおく)、劉筠、銭惟演ら西崑派(せいこんは)の詩人です。
三人は秘書閣(帝室図書館)の同僚であったころ詩を応酬しあい、大中祥府元年(1008)に『西崑酬唱集』を発表しました。その詩風は西崑体と称され、初期の宋詩に一時代を画します。西崑派の詩人は政府高官が多く、典故を多用した詩を作って知識を顕示する傾向がありました。晩唐の李商隠を学び、華麗な措辞によって暗示的、象徴的な詩風を生み出しました。「西崑」は崑崙山の群玉山策府(仙界の書庫)を意味します。
楊億(974ー1020)は建州浦城(福建省浦城県)の人。太祖の開宝七年(974)、南唐滅亡の前年に閩地の北辺で生まれました。才能を認められて、十一歳のときに秘書省正字の官を授けられました。十九歳で進士出身の資格を与えられ、真宗のとき翰林学士兼史館修撰になり、『太宗実録』の編纂などに腕を振るいました。真宗の天禧四年(1020)に亡くなり、享年四十七歳でした。
詩題の「漢武」(かんぶ)は漢の武帝のことです。詩中に「漢武」の語を用いず、すべての句で武帝の行状を皮肉まじりに詠います。「蓬萊」は東の海上にあるという伝説の神山(島)で、「銀闕」は仙人のいる宮殿です。「弱水」は蓬萊山へ通じる海で、はじめの二句は武帝が不老長寿の仙薬を求めたことをいいます。
「竹宮」は『漢書』礼楽志に典故があり、正月上辛の日に神仙を祭ると神光が流星のように祠壇にあつまり、武帝はそれを竹宮から望拝したといいます。「金掌」は武帝が作らせた掌露銅盤(しょうろどうばん)のことで、上に仙人掌があり、それで受けた露に玉屑を混ぜて飲んだといいます。以上四句は武帝が方士の言を信じて不老長生に心がけたことを皮肉るものです。
「龍種」は武帝が西域に兵を発して大宛の善馬数十頭を得たことをいいます。「文成」は方士李少君(りしょうくん)のことで、文成将軍の位を与えましたが、のちに誅しました。そしてあれは馬の肝を食べて死んだのだと誤魔化したそうです。「待詔先生」は東方朔のことで、歯並びが美しかったけれど俸禄が少なかったといいます。だから献策が採用されなくても俸禄だけは削らないでほしいと嘆願したそうです。すべての句で武帝が愚かな帝王であったことを詠っています。