北宋9ー寇準
夏 日 夏 日
離心杳杳思遅遅 離心(りしん) 杳杳(ようよう)として 思い遅遅(ちち)たり
深院無人柳自垂 深院(しんいん) 人無くして柳自(おのず)から垂る
日暮長廊聞燕語 日暮(ひぼ) 長廊(ちょうろう) 燕語(えんご)を聞く
軽寒微雨麦秋時 軽寒(けいかん) 微雨(びう) 麦秋(ばくしゅう)の時
⊂訳⊃
別れの悲しみは深く 思いはいつまでも心にのこる
奥の庭に人の影なく 柳は枝をたれているだけ
日暮れになって 廊下のあたりで燕の声
肌寒い小雨が降って 麦も色づく季節です
⊂ものがたり⊃ 天下統一を成し遂げた宋には二つの問題が残されていました。北の強国遼(りょう)が領有する燕雲十六州の帰属問題と河套(オルドス)南部の夏州(内モンゴル自治区統万城跡)に拠っていた党項(タングート)族拓抜李氏の存在です。
宋は燕雲十六州を奪い返そうと遼に戦いを挑みます。これに応じた遼は、宋の真宗の景徳元年(1004)、大軍をもよおして南下して来ました。宋軍は澶州(河南省濮陽県)に兵を出し、黄河を渡って遼軍と対峙します。
このとき宋側には強硬論と和平論がありました。議論の末、遼の燕雲十六州の領有を認め、兄(宋)・弟(遼)の礼を約して講和します。史上「澶淵(せんえん)の盟」といわれる和約によって宋は平和を保ち、経済発展に向かうことになります。
寇準(こうじゅん:961ー1023)は華州下邽(陝西省下邽県)の人。宋建国の翌年に生まれ、太宗の太平興国四年(979)に十九歳で進士に及第します。累進して真宗の景徳元年、四十四歳で宰相に任じられ、遼の侵攻に際しては強硬論をとなえます。
澶淵の論に敗れて一時宰相を免ぜられますが、天禧のはじめ(1017頃)ふたたび宰相になり、莢国公にも封じられました。しかし、最後は政争に敗れ、雷州(広東省海康県)の司戸参軍に流されます。ついで衡州(湖南省衡陽県)に移され、そこで亡くなりました。享年六十三歳です。
詩題の「夏日」(かじつ)は詩中に「麦秋」とあるので陰暦四月、初夏です。詩の主人公は女性で、唐代の閨怨詩の流れを受けています。「深院」は奥庭のことで、そこに「人無くして柳自から垂る」と柳の別れのイメージを借りています。「燕」にはつがいのイメージがあり、ひとり身の自分を思うのです。
硬派の政治家が小粋な閨怨詩の作者であるのはちぐはぐな感じですが、詩人として切実な感懐を詠っているのではなく、宴会の席かなにかで作ってみせたものでしょう。宴会での遊びとして、こういう詩が喝采を博したという状況が考えられます。
夏 日 夏 日
離心杳杳思遅遅 離心(りしん) 杳杳(ようよう)として 思い遅遅(ちち)たり
深院無人柳自垂 深院(しんいん) 人無くして柳自(おのず)から垂る
日暮長廊聞燕語 日暮(ひぼ) 長廊(ちょうろう) 燕語(えんご)を聞く
軽寒微雨麦秋時 軽寒(けいかん) 微雨(びう) 麦秋(ばくしゅう)の時
⊂訳⊃
別れの悲しみは深く 思いはいつまでも心にのこる
奥の庭に人の影なく 柳は枝をたれているだけ
日暮れになって 廊下のあたりで燕の声
肌寒い小雨が降って 麦も色づく季節です
⊂ものがたり⊃ 天下統一を成し遂げた宋には二つの問題が残されていました。北の強国遼(りょう)が領有する燕雲十六州の帰属問題と河套(オルドス)南部の夏州(内モンゴル自治区統万城跡)に拠っていた党項(タングート)族拓抜李氏の存在です。
宋は燕雲十六州を奪い返そうと遼に戦いを挑みます。これに応じた遼は、宋の真宗の景徳元年(1004)、大軍をもよおして南下して来ました。宋軍は澶州(河南省濮陽県)に兵を出し、黄河を渡って遼軍と対峙します。
このとき宋側には強硬論と和平論がありました。議論の末、遼の燕雲十六州の領有を認め、兄(宋)・弟(遼)の礼を約して講和します。史上「澶淵(せんえん)の盟」といわれる和約によって宋は平和を保ち、経済発展に向かうことになります。
寇準(こうじゅん:961ー1023)は華州下邽(陝西省下邽県)の人。宋建国の翌年に生まれ、太宗の太平興国四年(979)に十九歳で進士に及第します。累進して真宗の景徳元年、四十四歳で宰相に任じられ、遼の侵攻に際しては強硬論をとなえます。
澶淵の論に敗れて一時宰相を免ぜられますが、天禧のはじめ(1017頃)ふたたび宰相になり、莢国公にも封じられました。しかし、最後は政争に敗れ、雷州(広東省海康県)の司戸参軍に流されます。ついで衡州(湖南省衡陽県)に移され、そこで亡くなりました。享年六十三歳です。
詩題の「夏日」(かじつ)は詩中に「麦秋」とあるので陰暦四月、初夏です。詩の主人公は女性で、唐代の閨怨詩の流れを受けています。「深院」は奥庭のことで、そこに「人無くして柳自から垂る」と柳の別れのイメージを借りています。「燕」にはつがいのイメージがあり、ひとり身の自分を思うのです。
硬派の政治家が小粋な閨怨詩の作者であるのはちぐはぐな感じですが、詩人として切実な感懐を詠っているのではなく、宴会の席かなにかで作ってみせたものでしょう。宴会での遊びとして、こういう詩が喝采を博したという状況が考えられます。