北宋6ー王禹偁
畬田詞五首 其一 畬田の詞 五首 其の一
大家斉力劚孱顔 大家(たいか) 力を斉(ひと)しくして孱顔(せんがん)を劚(き)る
耳聴田歌手莫 耳に田歌(でんか)を聴き 手に(いとま)莫(な)し
各願種成千百索 各々(おのおの)願わくは 種(う)えて千百索(せんひゃくさく)を成し
豆萁禾穂満青山 豆萁(とうき) 禾穂(かすい) 青山(せいざん)に満つることを
⊂訳⊃
みなさんは 力を合わせて山の斜面を切りひらく
民謡を歌いつつ 手は休みなく動いている
皆の願いは 広い畑を作ること
豆や穀物が 山いっぱいに稔ること
⊂ものがたり⊃ 王禹偁(おううしょう:954ー1001)は済州鉅野(山東省鉅野県)の人。農家に生まれ、宋の建国のとき七歳でした。太宗の太平興国八年(983)、三十歳で進士に及第します。王禹偁は農民身分から進士に及第し、政府高官になりました。こうした例は唐代にはみられなかったことで、宋代の官吏任用の新しさを体現する人物といえます。
累進して礼部員外郎・知制誥になりますが、直言して宰相と衝突し、三度も左遷されます。最後は靳州(きんしゅう:湖北省)に移され、真宗の咸平四年(1001)に配地で亡くなりました。享年四十八歳です。
詩題の「畬田」(しゃでん)は焼き畑農業のことで、「詞」とありますが七言絶句です。このころ王禹偁は左遷されて商州(陝西省商県)にあり、禅寺に住んでいました。その地で焼き畑農業をみて農家の働き振りを賞讃します。
「大家」は呼びかけの言葉で、「皆さん」と農家の人々に呼びかけます。「孱顔」は山が険しくそそり立つさま。農民が協力し合って山腹を切りひらき焼き畑をつくっています。後半は働く農民の気持ちを推しはかりながら励ましの言葉をおくります。農民の労働に共感する七言絶句は珍しく、農民の気持ちに寄り添った分かりやすい詩です。
畬田詞五首 其一 畬田の詞 五首 其の一
大家斉力劚孱顔 大家(たいか) 力を斉(ひと)しくして孱顔(せんがん)を劚(き)る
耳聴田歌手莫 耳に田歌(でんか)を聴き 手に(いとま)莫(な)し
各願種成千百索 各々(おのおの)願わくは 種(う)えて千百索(せんひゃくさく)を成し
豆萁禾穂満青山 豆萁(とうき) 禾穂(かすい) 青山(せいざん)に満つることを
⊂訳⊃
みなさんは 力を合わせて山の斜面を切りひらく
民謡を歌いつつ 手は休みなく動いている
皆の願いは 広い畑を作ること
豆や穀物が 山いっぱいに稔ること
⊂ものがたり⊃ 王禹偁(おううしょう:954ー1001)は済州鉅野(山東省鉅野県)の人。農家に生まれ、宋の建国のとき七歳でした。太宗の太平興国八年(983)、三十歳で進士に及第します。王禹偁は農民身分から進士に及第し、政府高官になりました。こうした例は唐代にはみられなかったことで、宋代の官吏任用の新しさを体現する人物といえます。
累進して礼部員外郎・知制誥になりますが、直言して宰相と衝突し、三度も左遷されます。最後は靳州(きんしゅう:湖北省)に移され、真宗の咸平四年(1001)に配地で亡くなりました。享年四十八歳です。
詩題の「畬田」(しゃでん)は焼き畑農業のことで、「詞」とありますが七言絶句です。このころ王禹偁は左遷されて商州(陝西省商県)にあり、禅寺に住んでいました。その地で焼き畑農業をみて農家の働き振りを賞讃します。
「大家」は呼びかけの言葉で、「皆さん」と農家の人々に呼びかけます。「孱顔」は山が険しくそそり立つさま。農民が協力し合って山腹を切りひらき焼き畑をつくっています。後半は働く農民の気持ちを推しはかりながら励ましの言葉をおくります。農民の労働に共感する七言絶句は珍しく、農民の気持ちに寄り添った分かりやすい詩です。