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ティェンタオの自由訳漢詩 2180

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 北宋5ー柳開
     塞上               塞上

  鳴骹直上一千尺   鳴骹(めいこう)  直(ただ)ちに上る一千尺
  天静無風声更乾   天静かに風無く  声  更に乾く
  碧眼胡児三百騎   碧眼(へきがん)の胡児(こじ)  三百騎
  尽提金勒向雲看   尽(ことごと)く金勒(きんろく)を提(ひきし)めて雲に向かって看(み)る

  ⊂訳⊃
          鏑矢が一千尺の高みに上ると

          空は静か  風もなく  乾いた矢音が鳴りわたる

          碧眼の胡兵三百騎は

          馬の銜を引きしめて  雲のかなたを振り仰ぐ


 ⊂ものがたり⊃ 宋の太祖趙匡胤は、五代の王朝が短命に終始したのは武力を持った節度使の存在にあることを知りつくしていました。だから節度使の兵権を削って禁軍(皇帝の親衛軍)の強化をはかり、あわせて中央の官制をととのえていきます。
 隋唐の科挙を復活し、中央の官職のほとんどに文官を用い、中央集権的な文治体制をととのえていきます。省試の上に天子みずから合否を判定する殿試を追加し、進士とのつながりを強化します。ついで太宗は科挙の合格枠を拡大し、科挙文官が宋の政事をになうようになります。
 進士をめざす知識人は詩作を学ぶことになりますが、宋代初期の詩は唐代に倣うものがほとんどでした。そんななか柳開(りゅうかい)と王禹偁が独自性を示します。
 柳開(947ー1000)は大名(河北省大名県)の人。五代後漢の天福二年(947)に生まれ、宋建国の建隆元年(960)に十四歳でした。太祖の開宝六年(973)、二十七歳で進士に及第しますが官歴は不明です。
 柳開は中唐の韓愈らの古文復興運動に感銘し、古文の復興を提唱します。しかし、当時の文壇ではまだその機が熟しておらず、古文復興の機運がたかまるのは死後二十余年たった仁宗の世になってからです。柳開は北宋における古文復興運動の先駆者と称されますが、本人は夢を果たせないまま真宗の咸平三年(1000)、孤独のうちに亡くなります。享年五十四歳です。
 詩題の「塞上」(さいじょう)は砦のほとり。太祖は南唐を征した翌年、開宝九年(976)に北漢攻撃の軍を起こします。ときに柳開は三十歳でした。詩はこのときに作られた可能性がありますが、制昨年は不明です。「鳴骹」(鏑矢)は北方騎馬民族の通信手段で、胡族が砦の空高く開戦の合図の矢を放つと碧眼の胡兵は馬の銜を引きしめて空を見上げると戦闘開始の場面を詠います。
 唐代の辺塞詩に似ていますが、詠っているのは敵方の状況です。戦闘開始の緊張感に詩を感じた作品と思われますが、このときの北漢攻撃は太祖の崩御によって先送りになりました。

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