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ティェンタオの自由訳漢詩 2174

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 晩唐45ー韓偓
    尤渓道中               尤渓道中

  水自潺潺日自斜   水は自(おのず)から潺潺(せんせん)  日は自から斜めなり
  尽無鶏犬有鳴鴉   尽(ことごと)く鶏犬(けいけん)無く鳴鴉(めいあ)有り
  千村万落如寒食   千村(せんそん)万落(ばんらく)  寒食(かんしょく)の如し
  不見人煙空見花   人煙(じんえん)を見ず  空(むな)しく花を見る

  ⊂訳⊃
          水はさらさらと流れ  日は西に傾く

          鶏や犬の姿はなく   鴉の鳴き声だけが聞こえる

          いずこの村も  寒食節のようだ

          炊煙は見えず  花だけが咲いている


 ⊂ものがたり⊃ 韓偓が唐の滅亡を耳にしたのは、流浪の旅の途中であったと思われます。唐がいずれ倒壊することは分かっていました。天祐四年(907)四月、朱全忠が梁(後梁)を建国すると、呉王銭鏐(せんきゅう)は五月に呉越国を建て、翌年を天宝元年と定めました。
 つづいて蜀王王建(おうけん)は九月に蜀国(前蜀)を建て、翌年を武成元年と定めます。福州(福建省福州市)の武威軍節度使王審知(おうしんち)は閩王に封じられ、梁の開平三年(909)四月に閩国を建てます。年号は梁の年号を用いました。
 梁と呉越・蜀・閩は同盟関係にあったと思われ、敵国は楊行密(ようこうみつ)の呉国です。そのご各国は興亡し、五代十国の分裂時代になります。
 詩題の「尤渓道中」(ゆうけいどうちゅう)は「沙県(しゃけん)より尤渓県に抵(いた)り 泉州の軍過ぎて後 村落皆空しきに値(あ)い 因って一絶(いちぜつ)有り」を縮めたものといいます。なお「此の後庚午(こうご)の年」の自注があり、後梁の開平四年(910)、閩の建国二年目ということになります。詩題中にある地名、沙県・尤渓県・泉州はともに福建省にありますので、福建を流浪していたときの作品でしょう。
 「潺潺」は水の流れる音。歳月や水の流れだけが何事もなかったように過ぎてゆき、村には鶏や犬の姿さえなく、鴉だけが鳴いています。泉州の軍隊が通過したからで、まるで「寒食」(寒食節)のようだと詠います。寒食節は清明節の前二日間、火を断ち煮炊きをしない習慣でした。村々は無人となって炊煙ものぼらず、花だけが空しく咲いていると詠います。 

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