晩唐45ー韓偓
尤渓道中 尤渓道中
水自潺潺日自斜 水は自(おのず)から潺潺(せんせん) 日は自から斜めなり
尽無鶏犬有鳴鴉 尽(ことごと)く鶏犬(けいけん)無く鳴鴉(めいあ)有り
千村万落如寒食 千村(せんそん)万落(ばんらく) 寒食(かんしょく)の如し
不見人煙空見花 人煙(じんえん)を見ず 空(むな)しく花を見る
⊂訳⊃
水はさらさらと流れ 日は西に傾く
鶏や犬の姿はなく 鴉の鳴き声だけが聞こえる
いずこの村も 寒食節のようだ
炊煙は見えず 花だけが咲いている
⊂ものがたり⊃ 韓偓が唐の滅亡を耳にしたのは、流浪の旅の途中であったと思われます。唐がいずれ倒壊することは分かっていました。天祐四年(907)四月、朱全忠が梁(後梁)を建国すると、呉王銭鏐(せんきゅう)は五月に呉越国を建て、翌年を天宝元年と定めました。
つづいて蜀王王建(おうけん)は九月に蜀国(前蜀)を建て、翌年を武成元年と定めます。福州(福建省福州市)の武威軍節度使王審知(おうしんち)は閩王に封じられ、梁の開平三年(909)四月に閩国を建てます。年号は梁の年号を用いました。
梁と呉越・蜀・閩は同盟関係にあったと思われ、敵国は楊行密(ようこうみつ)の呉国です。そのご各国は興亡し、五代十国の分裂時代になります。
詩題の「尤渓道中」(ゆうけいどうちゅう)は「沙県(しゃけん)より尤渓県に抵(いた)り 泉州の軍過ぎて後 村落皆空しきに値(あ)い 因って一絶(いちぜつ)有り」を縮めたものといいます。なお「此の後庚午(こうご)の年」の自注があり、後梁の開平四年(910)、閩の建国二年目ということになります。詩題中にある地名、沙県・尤渓県・泉州はともに福建省にありますので、福建を流浪していたときの作品でしょう。
「潺潺」は水の流れる音。歳月や水の流れだけが何事もなかったように過ぎてゆき、村には鶏や犬の姿さえなく、鴉だけが鳴いています。泉州の軍隊が通過したからで、まるで「寒食」(寒食節)のようだと詠います。寒食節は清明節の前二日間、火を断ち煮炊きをしない習慣でした。村々は無人となって炊煙ものぼらず、花だけが空しく咲いていると詠います。
尤渓道中 尤渓道中
水自潺潺日自斜 水は自(おのず)から潺潺(せんせん) 日は自から斜めなり
尽無鶏犬有鳴鴉 尽(ことごと)く鶏犬(けいけん)無く鳴鴉(めいあ)有り
千村万落如寒食 千村(せんそん)万落(ばんらく) 寒食(かんしょく)の如し
不見人煙空見花 人煙(じんえん)を見ず 空(むな)しく花を見る
⊂訳⊃
水はさらさらと流れ 日は西に傾く
鶏や犬の姿はなく 鴉の鳴き声だけが聞こえる
いずこの村も 寒食節のようだ
炊煙は見えず 花だけが咲いている
⊂ものがたり⊃ 韓偓が唐の滅亡を耳にしたのは、流浪の旅の途中であったと思われます。唐がいずれ倒壊することは分かっていました。天祐四年(907)四月、朱全忠が梁(後梁)を建国すると、呉王銭鏐(せんきゅう)は五月に呉越国を建て、翌年を天宝元年と定めました。
つづいて蜀王王建(おうけん)は九月に蜀国(前蜀)を建て、翌年を武成元年と定めます。福州(福建省福州市)の武威軍節度使王審知(おうしんち)は閩王に封じられ、梁の開平三年(909)四月に閩国を建てます。年号は梁の年号を用いました。
梁と呉越・蜀・閩は同盟関係にあったと思われ、敵国は楊行密(ようこうみつ)の呉国です。そのご各国は興亡し、五代十国の分裂時代になります。
詩題の「尤渓道中」(ゆうけいどうちゅう)は「沙県(しゃけん)より尤渓県に抵(いた)り 泉州の軍過ぎて後 村落皆空しきに値(あ)い 因って一絶(いちぜつ)有り」を縮めたものといいます。なお「此の後庚午(こうご)の年」の自注があり、後梁の開平四年(910)、閩の建国二年目ということになります。詩題中にある地名、沙県・尤渓県・泉州はともに福建省にありますので、福建を流浪していたときの作品でしょう。
「潺潺」は水の流れる音。歳月や水の流れだけが何事もなかったように過ぎてゆき、村には鶏や犬の姿さえなく、鴉だけが鳴いています。泉州の軍隊が通過したからで、まるで「寒食」(寒食節)のようだと詠います。寒食節は清明節の前二日間、火を断ち煮炊きをしない習慣でした。村々は無人となって炊煙ものぼらず、花だけが空しく咲いていると詠います。