晩唐37ー韋荘
長安春 長安の春
長安二月多香塵 長安の二月 香塵(こうじん)多し
六街車馬声轔轔 六街(りくがい)の車馬(しゃば) 声轔轔(りんりん)
家家楼上如花人 家家(かか)楼上(ろうじょう) 花の如き人
千枝万枝紅豔新 千枝(せんし)万枝(ばんし) 紅豔(こうえん)新たなり
簾間笑語自相問 簾間(れんかん)の笑語(しょうご) 自(みずか)ら相問(あいと)う
何人占得長安春 何人(なんびと)ぞ占め得たる長安の春と
長安春色本無主 長安の春色(しゅんしょく) 本(もと) 主(あるじ)無し
古来尽属紅楼女 古来(こらい) 尽(ことごと)く属す紅楼(こうろう)の女(じょ)
如今無奈杏園人 如今(ただいま) 奈(いかん)ともする無し杏園(きょうえん)の人
駿馬軽車擁将去 駿馬(しゅんめ)軽車(けいしゃ) 擁(よう)し将(も)ちて去る
⊂訳⊃
長安の二月 飛び散る塵もかぐわしく
都大路を ゆきかう馬車の音はりんりん
列なる邸に 美人は花のようにつどい
樹々の枝は 紅の色をうつして艶やか
簾から洩れ出る笑い声 ふと自問自答する
長安の春を だれがひとり占めできようか
春の景色に もともとあるじはいないのだ
紅楼の女性には 春のすべてが備わっている
だが 杏園に集う女はどうしようもない
新進士が 駿馬の馬車で連れ去るのだ
⊂ものがたり⊃ 黄巣の乱によって僖宗は蜀の成都へ蒙塵すること五年、光啓元年(885)三月に都へもどりますが、長安は荒れ果てていました。また、乱のあいだに各地の藩鎮は独立性をつよめ、長安が支配するのは京兆府を中心とした狭い地域に過ぎず、唐は地方政権に転落していました。
そのころ長安を実質的に支配していたのは李克用(りこくよう)でした。十二月になると李克用は宦官田令孜(でんれいし)と対立し、僖宗は鳳翔節度使李茂貞(りもてい)のもとに逃亡します。文徳元年(888)二月に長安にもどりますが、翌三月には崩じてしまいます。
僖宗の弟が立てられて昭宗になります。昭宗の世が十七年もつづき、唐が倒れそうで倒れなかったのは、李克用・朱全忠・宦官の三勢力がからみあって争っていたからです。唐末の三者の角逐については省略しますが、天祐元年(904)八月、朱全忠は昭宗を殺して哀帝を立て、三年後の天祐四年(907)四月、哀帝に禅譲をせまり、即位して梁(後梁)を建国します。
晩唐の最後、唐滅亡の時代を飾るのは韋荘(いそう)と韓偓(かんあく)のふたりです。
韋荘(836ー910)は京兆杜陵(西安市の南郊)の人。唐の宰相韋見素(いけんそ)の子孫で、韋応物(平成26.8.18のブログ参照)の四代後になります。はやくに父を失い、貧しいなか学問に励みました。杜陵から虢州(河南省霊宝市の南)に移り、四十歳を越えてから科挙に挑戦しますが及第せず、ときに黄巣の乱が起こって広明元年(880)十二月、都は陥落しました。そのとき韋荘は四十五歳、一家は乱に巻き込まれて大変な苦労を味わいます。
ひとまず洛陽に移り、中和二年(880)に黄巣の乱を描いた七言二百三十八句の大作「秦婦吟」(しんぷぎん)を書き高い評価をえます。そのご昭宗の乾寧元年(894)に五十九歳で進士に及第し、校書郎になりました。
王建(おうけん)が成都で乱を起こしたとき、韋荘は正使李訽(りこう)の判官になって宣撫に赴きましたが、かえって王建の掌書記になり、蜀(前蜀)の建国を援けました。蜀の建国後も王建に重用されて吏部侍郎になり、同平章事(宰相)をつとめます。
韋荘は杜甫を尊敬し、成都郊外にあった杜甫の浣花渓草堂を修復して自宅にし、晩年を過ごしたといいます。亡くなったのは唐の滅亡後三年、蜀の武威三年(910)で、享年七十五歳でした。
詩題の「長安の春」は新進士が決まる季節です。韋荘は及第できず、名家の女性は新進士の花嫁候補になって連れ去られてしまいます。はじめの四句は二月の長安の街の情景で、車が「轔轔」とゆきかっています。三句目の「楼」は大きな家のことで、そこに美人が集まって花が咲いたようです。
つぎの四句は作者の自問自答です。季節にも景色にも主人はいないのだから、みんなで楽しむことができるはずだといい、なかでも紅楼の女は「古来 尽く属す」と、これこそ長安の特別な景物であるといいます。
ところが結びの二句では、どうにもならない特別な女性がいると詠嘆します。「杏園」は曲江の西にある庭園で、天子が科挙の合格者に饗宴を賜わる場所として有名です。貴顕の家では新進士のなかから娘の婿をさがそうと馬車を繰り出します。だからその日は都大路は馬車でいっぱいになるのです。そんな良家の子女を車に乗せて連れ去るのは新進士であると、わが身の不合格を嘆くのです。
長安春 長安の春
長安二月多香塵 長安の二月 香塵(こうじん)多し
六街車馬声轔轔 六街(りくがい)の車馬(しゃば) 声轔轔(りんりん)
家家楼上如花人 家家(かか)楼上(ろうじょう) 花の如き人
千枝万枝紅豔新 千枝(せんし)万枝(ばんし) 紅豔(こうえん)新たなり
簾間笑語自相問 簾間(れんかん)の笑語(しょうご) 自(みずか)ら相問(あいと)う
何人占得長安春 何人(なんびと)ぞ占め得たる長安の春と
長安春色本無主 長安の春色(しゅんしょく) 本(もと) 主(あるじ)無し
古来尽属紅楼女 古来(こらい) 尽(ことごと)く属す紅楼(こうろう)の女(じょ)
如今無奈杏園人 如今(ただいま) 奈(いかん)ともする無し杏園(きょうえん)の人
駿馬軽車擁将去 駿馬(しゅんめ)軽車(けいしゃ) 擁(よう)し将(も)ちて去る
⊂訳⊃
長安の二月 飛び散る塵もかぐわしく
都大路を ゆきかう馬車の音はりんりん
列なる邸に 美人は花のようにつどい
樹々の枝は 紅の色をうつして艶やか
簾から洩れ出る笑い声 ふと自問自答する
長安の春を だれがひとり占めできようか
春の景色に もともとあるじはいないのだ
紅楼の女性には 春のすべてが備わっている
だが 杏園に集う女はどうしようもない
新進士が 駿馬の馬車で連れ去るのだ
⊂ものがたり⊃ 黄巣の乱によって僖宗は蜀の成都へ蒙塵すること五年、光啓元年(885)三月に都へもどりますが、長安は荒れ果てていました。また、乱のあいだに各地の藩鎮は独立性をつよめ、長安が支配するのは京兆府を中心とした狭い地域に過ぎず、唐は地方政権に転落していました。
そのころ長安を実質的に支配していたのは李克用(りこくよう)でした。十二月になると李克用は宦官田令孜(でんれいし)と対立し、僖宗は鳳翔節度使李茂貞(りもてい)のもとに逃亡します。文徳元年(888)二月に長安にもどりますが、翌三月には崩じてしまいます。
僖宗の弟が立てられて昭宗になります。昭宗の世が十七年もつづき、唐が倒れそうで倒れなかったのは、李克用・朱全忠・宦官の三勢力がからみあって争っていたからです。唐末の三者の角逐については省略しますが、天祐元年(904)八月、朱全忠は昭宗を殺して哀帝を立て、三年後の天祐四年(907)四月、哀帝に禅譲をせまり、即位して梁(後梁)を建国します。
晩唐の最後、唐滅亡の時代を飾るのは韋荘(いそう)と韓偓(かんあく)のふたりです。
韋荘(836ー910)は京兆杜陵(西安市の南郊)の人。唐の宰相韋見素(いけんそ)の子孫で、韋応物(平成26.8.18のブログ参照)の四代後になります。はやくに父を失い、貧しいなか学問に励みました。杜陵から虢州(河南省霊宝市の南)に移り、四十歳を越えてから科挙に挑戦しますが及第せず、ときに黄巣の乱が起こって広明元年(880)十二月、都は陥落しました。そのとき韋荘は四十五歳、一家は乱に巻き込まれて大変な苦労を味わいます。
ひとまず洛陽に移り、中和二年(880)に黄巣の乱を描いた七言二百三十八句の大作「秦婦吟」(しんぷぎん)を書き高い評価をえます。そのご昭宗の乾寧元年(894)に五十九歳で進士に及第し、校書郎になりました。
王建(おうけん)が成都で乱を起こしたとき、韋荘は正使李訽(りこう)の判官になって宣撫に赴きましたが、かえって王建の掌書記になり、蜀(前蜀)の建国を援けました。蜀の建国後も王建に重用されて吏部侍郎になり、同平章事(宰相)をつとめます。
韋荘は杜甫を尊敬し、成都郊外にあった杜甫の浣花渓草堂を修復して自宅にし、晩年を過ごしたといいます。亡くなったのは唐の滅亡後三年、蜀の武威三年(910)で、享年七十五歳でした。
詩題の「長安の春」は新進士が決まる季節です。韋荘は及第できず、名家の女性は新進士の花嫁候補になって連れ去られてしまいます。はじめの四句は二月の長安の街の情景で、車が「轔轔」とゆきかっています。三句目の「楼」は大きな家のことで、そこに美人が集まって花が咲いたようです。
つぎの四句は作者の自問自答です。季節にも景色にも主人はいないのだから、みんなで楽しむことができるはずだといい、なかでも紅楼の女は「古来 尽く属す」と、これこそ長安の特別な景物であるといいます。
ところが結びの二句では、どうにもならない特別な女性がいると詠嘆します。「杏園」は曲江の西にある庭園で、天子が科挙の合格者に饗宴を賜わる場所として有名です。貴顕の家では新進士のなかから娘の婿をさがそうと馬車を繰り出します。だからその日は都大路は馬車でいっぱいになるのです。そんな良家の子女を車に乗せて連れ去るのは新進士であると、わが身の不合格を嘆くのです。