晩唐33ー曹松
己亥歳 己亥の歳
沢国江山入戦図 沢国(たくこく)の江山(こうざん) 戦図(せんと)に入る
生民何計楽樵蘇 生民(せいみん) 何の計ありてか樵蘇(しょうそ)を楽しまん
憑君莫話封侯事 君に憑(よ)る 話(かた)る莫(なか)れ 封侯(ほうこう)の事
一将功成万骨枯 一将(いっしょう) 功(こう)成って 万骨(ばんこつ)枯る
⊂訳⊃
稔り豊かな江淮の 山も川も戦場と化し
人はもはや 煮炊きを楽しむすべもない
お願いだから 手柄のことなど言わないで
「一将 功成って 万骨枯る」ではありませんか
⊂ものがたり⊃ 龐(ほうくん)の乱後、山東西部、河南東北部一帯には群盗がはびこっていましたが、このとき大規模な干害が河北を襲いました。咸通十四年(873)七月に宣宗が崩じ、太子が即位して僖宗になります。
そうしたなか乾符二年(875)の夏、山東と河南の省境付近で王仙之(おうせんし)が数千の民を率いて蜂起し、ついで黄巣(こうそう)が起って呼応します。この年は蝗害もひどく、反乱は周辺の流民や盗賊を集めて拡大し、南へ流動して長江中流に達します。一帯は流動する賊と藩鎮兵との戦場になり、大混乱を呈します。
三年にわたる動乱のあと、王仙之が長江中流の黄梅(湖北省黄梅県)で敗死すると、黄巣は王仙之の残存勢力を吸収して江南に退き、広州(広東省広州市)まで南下して態勢を立て直します。広州から北上を始めた黄巣軍は広明元年(880)七月に長江を渡り、十一月には洛陽に入城、十二月に潼関を破って長安を手中にしました。
長安に入城した黄巣は帝位につき、国号を大斉と号しますが、帝位にあったのは二年四か月でした。中和三年(883)四月に長安を撤退して東に向かい、泰山(山東省泰安県)東南の狼虎谷で自害し、十年にわたる黄巣の乱は終わりを告げます。
晩唐の詩人の大半は黄巣の乱に遭遇しますが、そのなかで動乱のただなかを生きた詩人として曹松(そうしょう)、鄭谷、釋貫休、王駕の四人をあげます。
曹松(830?ー902?)は舒州(安徽省潜山県)の人とも衡陽(湖南省衡陽県)の人ともいいます。若いころから江湖に漂泊し、貧に苦しみました。のちに建州(福建省建甌県)刺史李頻(りひん)の援助を受けます。乾符二年に黄巣の乱が起こったときは四十六歳位でした。乱後、昭宗の光化四年(901)に七十二歳くらいで進士に及第し、秘書省正字になりますが、翌年には亡くなったとみられます。享年七十三歳くらいです。
詩題の「己亥」(きがい:つちのとい)は僖宗の乾符六年(879)の干支で、黄巣の乱が起こって五年目にあたります。この年、鎮海軍節度使高駢(こうべん)は淮南で黄巣軍を撃破し、その功によって封賞を受けました。
詩は前半で荒れた国土の状態を述べます。「沢国」は河川や沼沢の多い豊かな地、江淮地方を指し、「樵蘇」は木を切り、草を刈って煮炊きをすることで普通の生活をいいます。後半は戦争に行って一旗揚げようようとする夫に、妻が行かないように懇願する場面です。
転結の二句は妻が夫を引き止めている言葉で、女性に成り代わって詠う閨怨詩の手法が見られます。「一将 功成って 万骨枯る」は成句となっており、現代では功績がひとり占めされることをいいます。
己亥歳 己亥の歳
沢国江山入戦図 沢国(たくこく)の江山(こうざん) 戦図(せんと)に入る
生民何計楽樵蘇 生民(せいみん) 何の計ありてか樵蘇(しょうそ)を楽しまん
憑君莫話封侯事 君に憑(よ)る 話(かた)る莫(なか)れ 封侯(ほうこう)の事
一将功成万骨枯 一将(いっしょう) 功(こう)成って 万骨(ばんこつ)枯る
⊂訳⊃
稔り豊かな江淮の 山も川も戦場と化し
人はもはや 煮炊きを楽しむすべもない
お願いだから 手柄のことなど言わないで
「一将 功成って 万骨枯る」ではありませんか
⊂ものがたり⊃ 龐(ほうくん)の乱後、山東西部、河南東北部一帯には群盗がはびこっていましたが、このとき大規模な干害が河北を襲いました。咸通十四年(873)七月に宣宗が崩じ、太子が即位して僖宗になります。
そうしたなか乾符二年(875)の夏、山東と河南の省境付近で王仙之(おうせんし)が数千の民を率いて蜂起し、ついで黄巣(こうそう)が起って呼応します。この年は蝗害もひどく、反乱は周辺の流民や盗賊を集めて拡大し、南へ流動して長江中流に達します。一帯は流動する賊と藩鎮兵との戦場になり、大混乱を呈します。
三年にわたる動乱のあと、王仙之が長江中流の黄梅(湖北省黄梅県)で敗死すると、黄巣は王仙之の残存勢力を吸収して江南に退き、広州(広東省広州市)まで南下して態勢を立て直します。広州から北上を始めた黄巣軍は広明元年(880)七月に長江を渡り、十一月には洛陽に入城、十二月に潼関を破って長安を手中にしました。
長安に入城した黄巣は帝位につき、国号を大斉と号しますが、帝位にあったのは二年四か月でした。中和三年(883)四月に長安を撤退して東に向かい、泰山(山東省泰安県)東南の狼虎谷で自害し、十年にわたる黄巣の乱は終わりを告げます。
晩唐の詩人の大半は黄巣の乱に遭遇しますが、そのなかで動乱のただなかを生きた詩人として曹松(そうしょう)、鄭谷、釋貫休、王駕の四人をあげます。
曹松(830?ー902?)は舒州(安徽省潜山県)の人とも衡陽(湖南省衡陽県)の人ともいいます。若いころから江湖に漂泊し、貧に苦しみました。のちに建州(福建省建甌県)刺史李頻(りひん)の援助を受けます。乾符二年に黄巣の乱が起こったときは四十六歳位でした。乱後、昭宗の光化四年(901)に七十二歳くらいで進士に及第し、秘書省正字になりますが、翌年には亡くなったとみられます。享年七十三歳くらいです。
詩題の「己亥」(きがい:つちのとい)は僖宗の乾符六年(879)の干支で、黄巣の乱が起こって五年目にあたります。この年、鎮海軍節度使高駢(こうべん)は淮南で黄巣軍を撃破し、その功によって封賞を受けました。
詩は前半で荒れた国土の状態を述べます。「沢国」は河川や沼沢の多い豊かな地、江淮地方を指し、「樵蘇」は木を切り、草を刈って煮炊きをすることで普通の生活をいいます。後半は戦争に行って一旗揚げようようとする夫に、妻が行かないように懇願する場面です。
転結の二句は妻が夫を引き止めている言葉で、女性に成り代わって詠う閨怨詩の手法が見られます。「一将 功成って 万骨枯る」は成句となっており、現代では功績がひとり占めされることをいいます。