初唐7ー上官儀
入朝洛堤歩月 朝に入らんとして洛堤にて月に歩む
脈脈広川流 脈脈(みゃくみゃく)として広川(こうせん)流る
駆馬歴長洲 馬を駆(か)って長洲(ちょうしゅう)を歴(ふ)
鵲飛山月曙 鵲(かささぎ)飛んで 山月(さんげつ)曙(あ)け
蝉噪野風秋 蝉(せみ)噪(さわ)いで 野風(やふう)秋なり
⊂訳⊃
どこまでも 流れる広い川
馬に乗って 川原を過ぎる
鵲が飛び 山に夜明けの月の影
蝉が鳴き 野を吹く風に秋を知る
⊂ものがたり⊃ 貞観十七年(643)一月に魏徴が死んだころから、貞観の治に揺らぎが生じて来ます。太宗には皇后長孫氏とのあいだに三人の子がいましたが、長子の太子を廃嫡し、十六歳の李治(りち)を太子にします。
貞観二十三年(649)二月、太宗は病に倒れ、長孫無忌・房玄齢・李世勣らに後事を託して亡くなりました。享年五十二歳です。二十二歳の太子李治が即位して高宗になります。
高宗の治世三十四年のうち前半の十五年ほどは、前代の元勲たちの輔翼によって政事はおおむね平穏に推移しますが、高宗は凡庸な君主でした。やがて父太宗の才人(正五品の女官)であった武照(ぶしょう)を寵愛するようになり、永徽六年(655)皇后王氏を廃して武照を皇后にすえます。のちの則天武后です。
武皇后は長安を嫌い、皇居を東都洛陽に遷し、そこで垂簾政事を行うようになります。上官儀(じょうかんぎ:608?ー664)は太宗・高宗に仕え、弘文館学士から西台侍郎に進みました。高宗時代には宮中の詩の指導者になり、その詩は後世「上官体」と称されます。
詩題の「朝」(ちょう)は朝廷のことで、月明りのもと「洛堤」(洛水の堤)にそって騎馬で参内するときの詩ですので、皇居が洛陽に移ってからの作品になります。中国では役人は夜明けと共に宮門を入って勤務につくのが慣わしでした。
洛陽城の中央を横切って洛水が東に流れ、宮城は流れの北の高台にあります。宮門の前には天津橋が架かっており、夜は鎖で閉ざされ通行禁止になっています。だから橋の手前の堤上で、鎖が解かれるのを待っているのです。
詩は二組の対句からなり、前半は道ゆきを述べます。後半は橋の手前で待つ間、あたりの情景を描きます。「蝉」は高潔な人格の喩えですので、それが騒いでいるというのは武后の政治介入を批判する気持ちが隠されているとも考えられます。
入朝洛堤歩月 朝に入らんとして洛堤にて月に歩む
脈脈広川流 脈脈(みゃくみゃく)として広川(こうせん)流る
駆馬歴長洲 馬を駆(か)って長洲(ちょうしゅう)を歴(ふ)
鵲飛山月曙 鵲(かささぎ)飛んで 山月(さんげつ)曙(あ)け
蝉噪野風秋 蝉(せみ)噪(さわ)いで 野風(やふう)秋なり
⊂訳⊃
どこまでも 流れる広い川
馬に乗って 川原を過ぎる
鵲が飛び 山に夜明けの月の影
蝉が鳴き 野を吹く風に秋を知る
⊂ものがたり⊃ 貞観十七年(643)一月に魏徴が死んだころから、貞観の治に揺らぎが生じて来ます。太宗には皇后長孫氏とのあいだに三人の子がいましたが、長子の太子を廃嫡し、十六歳の李治(りち)を太子にします。
貞観二十三年(649)二月、太宗は病に倒れ、長孫無忌・房玄齢・李世勣らに後事を託して亡くなりました。享年五十二歳です。二十二歳の太子李治が即位して高宗になります。
高宗の治世三十四年のうち前半の十五年ほどは、前代の元勲たちの輔翼によって政事はおおむね平穏に推移しますが、高宗は凡庸な君主でした。やがて父太宗の才人(正五品の女官)であった武照(ぶしょう)を寵愛するようになり、永徽六年(655)皇后王氏を廃して武照を皇后にすえます。のちの則天武后です。
武皇后は長安を嫌い、皇居を東都洛陽に遷し、そこで垂簾政事を行うようになります。上官儀(じょうかんぎ:608?ー664)は太宗・高宗に仕え、弘文館学士から西台侍郎に進みました。高宗時代には宮中の詩の指導者になり、その詩は後世「上官体」と称されます。
詩題の「朝」(ちょう)は朝廷のことで、月明りのもと「洛堤」(洛水の堤)にそって騎馬で参内するときの詩ですので、皇居が洛陽に移ってからの作品になります。中国では役人は夜明けと共に宮門を入って勤務につくのが慣わしでした。
洛陽城の中央を横切って洛水が東に流れ、宮城は流れの北の高台にあります。宮門の前には天津橋が架かっており、夜は鎖で閉ざされ通行禁止になっています。だから橋の手前の堤上で、鎖が解かれるのを待っているのです。
詩は二組の対句からなり、前半は道ゆきを述べます。後半は橋の手前で待つ間、あたりの情景を描きます。「蝉」は高潔な人格の喩えですので、それが騒いでいるというのは武后の政治介入を批判する気持ちが隠されているとも考えられます。