晩唐9ー温庭筠
夢江南 夢江南
梳洗罷 梳洗(そせん)し罷(おわ)って
独倚望江楼 独り倚(よ)る 望江楼(ぼうこうろう)
過尽千帆皆不是 過ぎ尽くす千帆(せんぱん) 皆(みな)是(こ)れならず
斜暉脈脈水悠悠 斜暉(しゃき)は脈脈たり 水は悠悠たり
腸断白蘋洲 腸(はらわた)は断(た)つ 白蘋(はくひん)の洲(す)
⊂訳⊃
髪をととのえ
ひとり高楼に佇んで 江を見おろす
過ぎゆく無数の舟に お姿はなく
夕陽は西に傾き続け 流れ去る水
浮草の花咲く浮洲よ 腸は千切れそう
⊂ものがたり⊃ 李商隠は七言律詩の厳格な形式に、それまでの詩世界ではタブーとされてきた現実の恋を濃密かつ生真面目に描き込みました。だから李商隠の初期の詩「無題」(平成24年1月24日ー2月2日などのブログ参照)は晦渋とならざるを得ません。
ところが温庭筠は白居易が広めた詞に恋を持ち込んで、閨怨詩の系譜を一新します。新時代の歌謠「詞」(ツー)は温庭筠によって確立したといっても過言ではありません。
詩題の「夢江南」(ぼうこうなん)は白居易に「憶江南」と題する詞(平成23年2月6日ー8日のブログ参照)があり、向こうを張るものでしょう。白居易が「江南好」(江南好し)と詠っているのに対して、温庭筠の詞はみごとな閨怨の歌になっています。
「梳洗」は髪をくしけずることと顔を洗うこと。身づくろいをして高楼の欄干にもたれて長江を見おろすのです。「望江楼」は楼閣の名というよりは、江(かわ)を見わたす建物といった感じでしょう。
「皆是れならず」はいずれも思う人が乗っている船ではないということで、待ち人きたらずです。「脈脈」はつづくことの形容、「悠悠」は流れることの形容で、悩みがつづく意味もあります。だから「斜暉は脈脈たり 水は悠悠たり」は待つ身の辛さの比喩となります。「白蘋」は白い花の咲く浮草。浮草が集まって浮洲になっており、わが身は寄る辺ない浮洲のようなものだと嘆くのです。
夢江南 夢江南
梳洗罷 梳洗(そせん)し罷(おわ)って
独倚望江楼 独り倚(よ)る 望江楼(ぼうこうろう)
過尽千帆皆不是 過ぎ尽くす千帆(せんぱん) 皆(みな)是(こ)れならず
斜暉脈脈水悠悠 斜暉(しゃき)は脈脈たり 水は悠悠たり
腸断白蘋洲 腸(はらわた)は断(た)つ 白蘋(はくひん)の洲(す)
⊂訳⊃
髪をととのえ
ひとり高楼に佇んで 江を見おろす
過ぎゆく無数の舟に お姿はなく
夕陽は西に傾き続け 流れ去る水
浮草の花咲く浮洲よ 腸は千切れそう
⊂ものがたり⊃ 李商隠は七言律詩の厳格な形式に、それまでの詩世界ではタブーとされてきた現実の恋を濃密かつ生真面目に描き込みました。だから李商隠の初期の詩「無題」(平成24年1月24日ー2月2日などのブログ参照)は晦渋とならざるを得ません。
ところが温庭筠は白居易が広めた詞に恋を持ち込んで、閨怨詩の系譜を一新します。新時代の歌謠「詞」(ツー)は温庭筠によって確立したといっても過言ではありません。
詩題の「夢江南」(ぼうこうなん)は白居易に「憶江南」と題する詞(平成23年2月6日ー8日のブログ参照)があり、向こうを張るものでしょう。白居易が「江南好」(江南好し)と詠っているのに対して、温庭筠の詞はみごとな閨怨の歌になっています。
「梳洗」は髪をくしけずることと顔を洗うこと。身づくろいをして高楼の欄干にもたれて長江を見おろすのです。「望江楼」は楼閣の名というよりは、江(かわ)を見わたす建物といった感じでしょう。
「皆是れならず」はいずれも思う人が乗っている船ではないということで、待ち人きたらずです。「脈脈」はつづくことの形容、「悠悠」は流れることの形容で、悩みがつづく意味もあります。だから「斜暉は脈脈たり 水は悠悠たり」は待つ身の辛さの比喩となります。「白蘋」は白い花の咲く浮草。浮草が集まって浮洲になっており、わが身は寄る辺ない浮洲のようなものだと嘆くのです。