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ティェンタオの自由訳漢詩 2127

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 中唐124ー劉禹錫
    楊柳枝詞             楊柳枝詞

  煬帝行宮汴水浜   煬帝(ようだい)の行宮(あんぐう)  汴水(べんすい)の浜(ひん)
  数株楊柳不勝春   数株(すうしゅ)の楊柳(ようりゅう)  春に勝(た)えず
  晩来風起花如雪   晩来(ばんらい)風起こって  花  雪の如し
  飛入宮牆不見人   飛んで宮牆(きゅうしょう)に入るも人を見ず

  ⊂訳⊃
          煬帝の離宮よ  汴水の岸

          数株の楊柳が  春の愁いに堪えかねる

          日暮れの風に  柳絮は舞って雪のよう

          飛んで宮殿の垣根に入るが  花見る人の姿はない


 ⊂ものがたり⊃ 太和三年(829)は白居易が太子賓客になって東都洛陽に居を定め、隠棲した年です。太和五年(831)には白居易も劉禹錫も六十歳になり、作品は肩の凝らない詞(ツー)が多くなります。詞(し)は引(いん)や行(こう)と同じく唄うための歌詞で、白居易が取り組んだ新傾向の文芸でした。
 太和二年の帰京のとき、劉禹錫は大運河を用いましたが、晩年に蘇州や和州再任など江南の刺史になったときも運河を用いて往復したでしょう。当時の運河は成皋(せいこう:河南省滎陽県)で黄河から分かれ、汴州(河南省開封市)をへて商丘(河南省商丘市)まで東流し、そこから南下します。そのため運河は汴水とも汴渠ともいわれていました。
 隋の煬帝(ようだい)は運河の堤に楊柳を植え、幾つもの宮殿を建てて離宮としました。離宮は唐代には廃墟と化し、楊柳だけが面影をとどめていました。
 季節は柳絮(りゅうじょ)の舞う晩春、汴水の岸に船をとどめたときの歌でしょう。柳絮が雪のように舞って廃墟の土牆のなかへ飛んでゆきますが、それを愛でる大宮人はいないと栄華のはかなさを詠嘆します。

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