初唐3ー虞世南
蝉 蝉
垂緌飲清露 緌(すい)を垂(た)れて清露(せいろ)を飲み
流響出疏桐 響(ひび)きを流して疏桐(そとう)より出(い)づ
居高声自遠 高きに居(お)りて声(こえ)自(おのず)から遠し
是非藉秋風 是(こ)れ秋風(しゅうふう)を藉(か)るに非(あら)ず
⊂訳⊃
蝉は嘴を伸ばして 清らかな露を飲み
蝉の鳴き声は 桐の梢から流れ出る
高い所にいるから 遠くまで届く
秋風の力を借りて 届くのではない
⊂ものがたり⊃ 魏徴が東藩の説諭に出かけた翌年の武徳九年(626)六月四日早朝、長安で大事件が起きました。その朝、秦王李世民(りせいみん)は妻の兄の長孫無忌(ちょうそんむき)ら九人を率いて玄武門(宮城の北門)を押さえ、入朝して来た兄で太子の李健成(りけんせい)と弟の斉王李元吉(りげんきつ)を殺害しました。
急を知って駆けつけた東宮府の兵を撃退し、高祖が避難していた海池(かいち)に勇将の尉遅敬徳(うっちけいとく)を差し向けて父親を拘束します。史上「玄武門の変」と言われるクーデターの発生です。李世民は「玄武門の変」三日後の六月七日に太子の位につき、二か月後の八月八日に父帝の譲りを受けて即位します。二十九歳の皇帝太宗の誕生です。
太宗の即位翌年は改元されて貞観元年(627)になり、太宗の政事を「貞観(じょうかん)の治」といいます。房玄齢(ぼうげんれい)や杜如海(とじょかい)といった賢臣たちが太宗の政事を輔け、魏徴もそのひとりでした。太宗の名君振り、君臣の交わりは『貞観政要』にまとめられています。
政事の安定とともに、宮廷では応制の詩や朝臣間の贈答の詩が作られるようになり、虞世南(ぐせいなん)もそのひとりです。虞世南(558ー638)は越州余姚(浙江省余姚県)の人。陳の武帝時代に江南で生まれ、陳が滅亡したとき三十二歳でした。隋に仕え、隋の滅亡後に唐に仕えて太宗のブレーン「十八学士」のひとりでした。
虞世南の「蝉」は有名は詠物詩で、以後、蝉は詠物詩の代表的な主題になります。この詩では前半二句で蝉を描き、後半二句で寓意を説きます。「緌」は蝉の嘴が冠の紐のように垂れていることをいい、蝉は高い所に棲み露を飲んで生きていると信じられていましたので、高潔な人格に喩えられます。
「疏桐」は高くて大きな桐のこと。高い木の上で鳴く蝉に託して、立派な人の名声は他人の力によって世に知られるのではなく、そのひと自身の力によると説き、自分もそのようにありたいと述べています。
蝉 蝉
垂緌飲清露 緌(すい)を垂(た)れて清露(せいろ)を飲み
流響出疏桐 響(ひび)きを流して疏桐(そとう)より出(い)づ
居高声自遠 高きに居(お)りて声(こえ)自(おのず)から遠し
是非藉秋風 是(こ)れ秋風(しゅうふう)を藉(か)るに非(あら)ず
⊂訳⊃
蝉は嘴を伸ばして 清らかな露を飲み
蝉の鳴き声は 桐の梢から流れ出る
高い所にいるから 遠くまで届く
秋風の力を借りて 届くのではない
⊂ものがたり⊃ 魏徴が東藩の説諭に出かけた翌年の武徳九年(626)六月四日早朝、長安で大事件が起きました。その朝、秦王李世民(りせいみん)は妻の兄の長孫無忌(ちょうそんむき)ら九人を率いて玄武門(宮城の北門)を押さえ、入朝して来た兄で太子の李健成(りけんせい)と弟の斉王李元吉(りげんきつ)を殺害しました。
急を知って駆けつけた東宮府の兵を撃退し、高祖が避難していた海池(かいち)に勇将の尉遅敬徳(うっちけいとく)を差し向けて父親を拘束します。史上「玄武門の変」と言われるクーデターの発生です。李世民は「玄武門の変」三日後の六月七日に太子の位につき、二か月後の八月八日に父帝の譲りを受けて即位します。二十九歳の皇帝太宗の誕生です。
太宗の即位翌年は改元されて貞観元年(627)になり、太宗の政事を「貞観(じょうかん)の治」といいます。房玄齢(ぼうげんれい)や杜如海(とじょかい)といった賢臣たちが太宗の政事を輔け、魏徴もそのひとりでした。太宗の名君振り、君臣の交わりは『貞観政要』にまとめられています。
政事の安定とともに、宮廷では応制の詩や朝臣間の贈答の詩が作られるようになり、虞世南(ぐせいなん)もそのひとりです。虞世南(558ー638)は越州余姚(浙江省余姚県)の人。陳の武帝時代に江南で生まれ、陳が滅亡したとき三十二歳でした。隋に仕え、隋の滅亡後に唐に仕えて太宗のブレーン「十八学士」のひとりでした。
虞世南の「蝉」は有名は詠物詩で、以後、蝉は詠物詩の代表的な主題になります。この詩では前半二句で蝉を描き、後半二句で寓意を説きます。「緌」は蝉の嘴が冠の紐のように垂れていることをいい、蝉は高い所に棲み露を飲んで生きていると信じられていましたので、高潔な人格に喩えられます。
「疏桐」は高くて大きな桐のこと。高い木の上で鳴く蝉に託して、立派な人の名声は他人の力によって世に知られるのではなく、そのひと自身の力によると説き、自分もそのようにありたいと述べています。