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ティェンタオの自由訳漢詩 2104

 中唐101ー元稹
   遺悲懐三首 其一      悲懐を遺る 三首 其の一

  謝公最小偏憐女   謝公(しゃこう)の最小  偏(ひとえ)に憐むの女(じょ)
  自嫁黔婁百事乖   自(みずか)ら黔婁(けんろう)に嫁して百事(ひゃくじ)乖(たが)う
  顧我無衣捜藎篋   我れに衣(ころも)無きを顧(かえり)みれば藎篋(じんきょう)を捜(さぐ)り
  泥他沽酒抜金釵   他(かれ)に酒を沽(か)わんことを泥(ねだ)れば金釵(きんさい)を抜く
  野蔬充膳甘長藿   野蔬(やそ)    膳(ぜん)に充ちて長藿(ちょうかく)を甘しとし
  落葉添薪仰古槐   落葉(らくよう)   薪(たきぎ)に添えんとして古槐(こかい)を仰ぐ
  今日俸銭過十万   今日(こんにち)  俸銭(ほうせん)  十万を過ぎ
  与君営奠復営斎   君が与(ため)に奠(てん)を営み   復(ま)た斎(さい)を営む

  ⊂訳⊃
          君は謝安の末娘  ことのほか愛されて育つ
          黔婁の妻となり   暮らしは一変した
          ろくな衣服しかないのを見て  自分の衣装箱を探し
          酒が欲しいと君に言えば    簪を抜いて工面した
          野菜だらけの食事のときでも 豆の葉っぱを好きだといい
          落ち葉を薪の足しにしようと  槐の古木を見上げていた
          やっと今  俸禄十万銭の身になったが
          その金を  君の葬式と供養に使うことになってしまった


 ⊂ものがたり⊃ 白居易より七歳の年少ですが、無二の親友として名高い詩人に元稹(げんじん)がいます。元稹(779ー831)は河南洛陽(河南省洛陽市)の人。若くして秀才のほまれ高く、十五歳で科挙の明経科に及第しました。貞元十六年(800)、二十二歳のとき、白居易と同年で進士に及第し、二人は生涯の友となります。
 元和元年(806)、二十八歳で左拾遺になりますが、しばしば天子に上書したため権臣に憎まれ、河南の県尉に左遷されます。そのご左遷と復帰をくりかえしますが、長慶二年(823)二月には同中書門下平章事(宰相)になります。しかし六月には罷免され、同州(陝西省大荔県)刺史となり、最後は武昌軍節度使になって文宗の太和五年(831)に武昌で亡くなりました。享年五十三歳です。
 元稹は二十歳になった貞元十四年(789)に四歳年少の韋叢(いそう)と結婚しますが、七年後の貞元二十一年(805)に二十三歳の若い妻を亡くしました。詩は愛妻を亡くした悲しみを詠うものです。
 「謝公」は東晋の名士謝安のことで、次句で自分のことを「黔婁」と称しているのと同じ比喩です。妻を立派な父親の「最小」(末娘)といい、「黔婁」は春秋斉の隠者。『列女伝』にみえる黔婁の妻の言「貧賤に戚戚(せきせき)たらず、富貴に汲汲たらず」は有名です。自分のような貧乏書生の妻になったために、それまでの妻の暮らしは一変したと詠います。
 中四句、二組の対句で生前の妻を偲びます。「無衣」はろくな衣服しかないこと、「長藿」は豆の葉のことで、「甘」は好む意味です。妻の死の二年前、貞元十九年(803)に元稹は秘書省校書郎(正九品上)になっていますので、「俸銭 十万を過ぎ」はその身分のことでしょう。生活もこれからすこしは楽になるというときに妻を亡くし、「奠」(葬式)と「斎」(供養)に使うことになってしまったと嘆くのです。

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