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ティェンタオの自由訳漢詩 2102

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 中唐99ー李紳
   憫農二首 其一     農を憫む 二首  其の一

  春種一粒粟     春に一粒(いちりゅう)の粟(ぞく)を種(う)え
  秋収万顆子     秋に万顆(ばんか)の子(み)を収む
  四海無閑田     四海(しかい)  閑田(かんでん)無きに
  農夫猶餓死     農夫(のうふ)  猶(な)お餓死す

  ⊂訳⊃
          春に一粒の籾を蒔けば

          秋には無数の実が収穫できる

          広いこの世に   休耕田などひとつもないが

          それでも農夫は  飢えて死ぬ


 ⊂ものがたり⊃ 柳宗元が永州で貶謫の悲哀と痛苦にあえいでいたころ、白居易は都でのちに諷諭詩と名づける代表作をつくっていました。しかし、社会の現状を批判する社会詩は元和前期の自由な雰囲気が衰えるとともに、新楽府運動の推進者に不利な影響をあたえます。
 元和十年(815)、柳宗元が柳州再貶の憂き目をみた年の六月三日未明、ときの宰相武元衡(ぶげんこう)と御史中丞裴度(はいど)が登朝の途中を暴漢に襲われるという事件が発生しました。そのとき太子左善大夫(従四品上)の職にあった白居易は、ただちに上書して犯人の早急な逮捕を具申しました。新楽府運動を嫌悪していた守旧派は、これを東宮官の越権行為として弾劾し、白居易は江州(江西省九江市)司馬に流されることになります。
 李紳(りしん:772ー846)は潤州無錫(江蘇省無錫市)の人。白居易と同じ年に生まれ、元和元年(806)、三十五歳で進士に及第し、翰林学士などを歴任します。白居易とともに新楽府運動の唱導者として活躍しますが、詩のほとんどは散逸しています。
 李紳は憲宗、穆宗、敬宗、文宗、武宗の五代に仕えて立身出世を遂げ、会昌二年(842)には宰相になっています。そのため若いころの社会詩は破棄したという説があります。晩年には白居易と親しく交わり、武宗が崩じた会昌八年(846)に享年七十五歳でなくなりました。
 詩は新楽府運動に参加していた若いころの作品で、詩題の「憫農」は農家への同情をあらわしています。分かりやすくストレートな詩で、はじめの二句で農家の働きを述べます。後半は「四海」(世の中全体)に遊んでいる田畑はひとつもないのに、農夫は飢えて死んでいくと税の苛酷を批判します。

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