中唐98ー柳宗元
種柳戲題 柳を種えて戲れに題す
柳州柳刺史 柳州(りゅうしゅう)の柳刺史(りゅうしし)
種柳柳江辺 柳(やなぎ)を種(う)う 柳江(りゅうこう)の辺(ほとり)
談笑為故事 談笑(だんしょう) 故事(こじ)と為(な)り
推移成昔年 推移して昔年(せきねん)と成る
垂陰当覆地 陰(かげ)を垂れて当(まさ)に地を覆うべし
聳幹会参天 幹(みき)を聳えさせて会(かなら)ず天に参(まじ)わるべし
好作思人樹 好(よ)し人と思う樹(き)と作(な)るに
慚無恵化伝 慚(は)ずらくは恵化(けいか)の伝(でん)無きを
⊂訳⊃
柳州の柳刺史が
柳江のほとりに 柳を植える
楽しい語らいは 過去となり
時は移って 昔のこととなる
地を覆う 日陰を垂れよ
幹を伸ばして天にも届け
よき人と 私を思うよすがになってほしいが
恵みを垂れたという 伝えのないのが残念だ
⊂ものがたり⊃ 詩は柳宗元がほどなく柳州でなくなるころに作られたと見られています。詩題に「戲れに題す」とあるのは謙遜もしくは韜晦しているのであって、自分の生涯を総括する重要な詩です。人は真面目であるから戯れのポーズをとり、戯れのポーズによって自己を客観視します。
まず冒頭の二句十語中に「柳」が四回も出て来ます。この語呂合わせによって駄洒落のおかしさを演出し、軽味を出します。同時に「柳」は陶淵明の「五柳先生伝」を思い出させる仕掛けになっており、田園帰居の生き方を理想とする態度を暗示しています。
「談笑」は柳州の民との語らいであり、ここでも近隣農夫との交流を楽しんだ陶淵明の多くの詩が想起されます。同時に柳州の柳刺史が柳江のほとりに柳を植えたという可笑しな話がやがて故事となり、むかし話になるとおどけて見せていると解せます。「故事」となり「昔年」となるというのは、死後のことを想定しているのです。
後半、詩の調子は一変します。頚聯の対句では天にも届くほど大きくなり、大地に涼しい陰を落とすようになれと柳に呼びかけます。「垂陰」も陶淵明の詩の随所に出てくる情景であり、柳宗元は自分も木陰に憩う穏やかな心境になったと思うと同時に、刺史として柳州の民を案じる気持ちが永く後世に残ることを期待しているのです。
尾聯の「好し人と思う樹と作るに」は『春秋左氏伝』定公九年の条に「其の人を思いて 猶お其の樹を愛す」とあるのに基づいています。「其の樹」は『詩経』召南の「甘棠」に出てくる甘棠のことで、周の召公は甘棠の樹下に野宿して民の訴えを聴いたといいます。村人は召公の死後もその恩徳をしたって甘棠の木を敬ったという故事があり、柳宗元は召公の甘棠のように柳の木が自分を「よき人」と思うよすがになってほしいと願うのです。そして、自分には「恵化」(善政)を施したという伝えもなく、そのことが恥かしいと結びます。
柳宗元は柳州四年の在任のあと、元和十四年(819)十月五日に任地で病没しました。劉禹錫と韓愈に遺書を残し、幼い子供の行く末を頼み、劉禹錫には遺稿の編集を依頼したといいます。なお、柳宗元の文学については岡山大学大学院下定雅弘教授の『柳宗元』(勉誠出版)があり、多くをこの著によったことを付記します。
種柳戲題 柳を種えて戲れに題す
柳州柳刺史 柳州(りゅうしゅう)の柳刺史(りゅうしし)
種柳柳江辺 柳(やなぎ)を種(う)う 柳江(りゅうこう)の辺(ほとり)
談笑為故事 談笑(だんしょう) 故事(こじ)と為(な)り
推移成昔年 推移して昔年(せきねん)と成る
垂陰当覆地 陰(かげ)を垂れて当(まさ)に地を覆うべし
聳幹会参天 幹(みき)を聳えさせて会(かなら)ず天に参(まじ)わるべし
好作思人樹 好(よ)し人と思う樹(き)と作(な)るに
慚無恵化伝 慚(は)ずらくは恵化(けいか)の伝(でん)無きを
⊂訳⊃
柳州の柳刺史が
柳江のほとりに 柳を植える
楽しい語らいは 過去となり
時は移って 昔のこととなる
地を覆う 日陰を垂れよ
幹を伸ばして天にも届け
よき人と 私を思うよすがになってほしいが
恵みを垂れたという 伝えのないのが残念だ
⊂ものがたり⊃ 詩は柳宗元がほどなく柳州でなくなるころに作られたと見られています。詩題に「戲れに題す」とあるのは謙遜もしくは韜晦しているのであって、自分の生涯を総括する重要な詩です。人は真面目であるから戯れのポーズをとり、戯れのポーズによって自己を客観視します。
まず冒頭の二句十語中に「柳」が四回も出て来ます。この語呂合わせによって駄洒落のおかしさを演出し、軽味を出します。同時に「柳」は陶淵明の「五柳先生伝」を思い出させる仕掛けになっており、田園帰居の生き方を理想とする態度を暗示しています。
「談笑」は柳州の民との語らいであり、ここでも近隣農夫との交流を楽しんだ陶淵明の多くの詩が想起されます。同時に柳州の柳刺史が柳江のほとりに柳を植えたという可笑しな話がやがて故事となり、むかし話になるとおどけて見せていると解せます。「故事」となり「昔年」となるというのは、死後のことを想定しているのです。
後半、詩の調子は一変します。頚聯の対句では天にも届くほど大きくなり、大地に涼しい陰を落とすようになれと柳に呼びかけます。「垂陰」も陶淵明の詩の随所に出てくる情景であり、柳宗元は自分も木陰に憩う穏やかな心境になったと思うと同時に、刺史として柳州の民を案じる気持ちが永く後世に残ることを期待しているのです。
尾聯の「好し人と思う樹と作るに」は『春秋左氏伝』定公九年の条に「其の人を思いて 猶お其の樹を愛す」とあるのに基づいています。「其の樹」は『詩経』召南の「甘棠」に出てくる甘棠のことで、周の召公は甘棠の樹下に野宿して民の訴えを聴いたといいます。村人は召公の死後もその恩徳をしたって甘棠の木を敬ったという故事があり、柳宗元は召公の甘棠のように柳の木が自分を「よき人」と思うよすがになってほしいと願うのです。そして、自分には「恵化」(善政)を施したという伝えもなく、そのことが恥かしいと結びます。
柳宗元は柳州四年の在任のあと、元和十四年(819)十月五日に任地で病没しました。劉禹錫と韓愈に遺書を残し、幼い子供の行く末を頼み、劉禹錫には遺稿の編集を依頼したといいます。なお、柳宗元の文学については岡山大学大学院下定雅弘教授の『柳宗元』(勉誠出版)があり、多くをこの著によったことを付記します。