初唐1ー魏徴
述懐 述懐 (前半八句)
中原還逐鹿 中原(ちゅうげん) 還(ま)た鹿を逐(お)い
投筆事戎軒 筆を投じて戎軒(じゅうけん)を事(こと)とす
縦横計不就 縦横(じゅうおう) 計 就(な)らざるも
慷慨志猶存 慷慨(こうがい) 志 猶(な)お存す
杖策謁天子 策(さく)を杖(つえつ)いて天子に謁(えつ)し
駆馬出関門 馬を駆(か)って関門(かんもん)を出(い)づ
請纓繋南粤 纓(えい)を請(こ)うて南粤(なんえつ)を繋ぎ
憑軾下東藩 軾(しょく)に憑(よ)って東藩(とうはん)を下さん
⊂やく⊃
中原に天下を争う世となり
筆を捨てて 戦場に赴く
弁論の計には 成功しなかったが
国を思う志は いまも抱いている
鞭を手にして 天子に謁し
馬を駆って 関門を出る
軮を授かって 南粤の王を繋ぎ
軾にもたれて 東方の藩を平定しよう
※ 軮(むながい)
⊂ものがたり⊃ 大業十四年(618)三月、隋の煬帝(ようだい)は江都(江蘇省揚州市)で部下の将軍に殺害され、隋は二代三十八年で滅亡します。そのころ長安を占領していた唐王李淵(りえん)は五月に帝位につき、元号を武徳と定めて唐を建国します。
当時の唐は長安を中心とする関中平野を支配するだけの政権で、各地には群雄が割拠して覇を競っていました。河南で最大の勢力を有していたのは李密(りみつ)で、はじめ魏徴(ぎちょう)は李密の挙兵に参加して動乱に投じていました。
李密が隋の江都軍と洛陽軍の挟み撃ちに遭って破れると、李密は唐に投じ、魏徴も李密に従って唐に赴きます。李密が唐に殺されると、唐を離れて河北の竇建徳(とうけんとく)の参謀になりますが、竇建徳も唐に滅ぼされたので、再び長安に行って唐に仕えました。
「述懐」(じゅつかい)は『唐詩選』巻一、五言古詩の巻頭に掲げられ、唐代の詩のはじまりを告げる作品です。制作年については諸説がありますが、ここでは武徳八年(625)に山東の徐世勣(じょせいせき)の巡撫を命じられ、潼関(陝西省華陰県の東)を出たときの作とする説に従います。
詩は四句ずつ五段に分けて読むことができ、はじめの四句は導入部です。自分の人生を振り返り、国家を思う気持ちは失っていないと詠います。「中原 還た鹿を逐い」は魏徴のこの詩によって有名であり、天下の覇権を競うことです。
つぎの四句では、出発に際しての悲壮な決意を述べるために二つの故事を引用しています。「纓を請うて南粤を繋ぎ」は、漢の武帝の命を受けた終軍(しゅうぐん)が南粤王を説得に行く故事です。『漢書』によると終軍は王の帰順に成功しますが、反対する宰相呂嘉(ろか)が兵を挙げ、南粤王とともに殺されてしまいます。
「軾に憑って東藩を下さん」は秦末に項羽と劉邦が争っていたとき、劉邦の謀士酈食其(れいいき)が斉王田広(でんこう)を説得に行ったときの故事です。酈食其は単身敵地に乗り込み、弁舌によって斉の七十余城を帰服させますが、その直後、別働隊の韓信が斉に攻め込んできたため、激怒した斉王は酈食其を大鍋で煮殺してしまいます。
二つとも弁舌の士が事に成功するが、思わぬ事態のために殺されてしまう例であり、魏徴も同じような運命が待ち構えているかも知れないと思うのです。魏徴の使命も死の危険と隣り合わせ、弁舌による巡撫使でした。
述懐 述懐 (前半八句)
中原還逐鹿 中原(ちゅうげん) 還(ま)た鹿を逐(お)い
投筆事戎軒 筆を投じて戎軒(じゅうけん)を事(こと)とす
縦横計不就 縦横(じゅうおう) 計 就(な)らざるも
慷慨志猶存 慷慨(こうがい) 志 猶(な)お存す
杖策謁天子 策(さく)を杖(つえつ)いて天子に謁(えつ)し
駆馬出関門 馬を駆(か)って関門(かんもん)を出(い)づ
請纓繋南粤 纓(えい)を請(こ)うて南粤(なんえつ)を繋ぎ
憑軾下東藩 軾(しょく)に憑(よ)って東藩(とうはん)を下さん
⊂やく⊃
中原に天下を争う世となり
筆を捨てて 戦場に赴く
弁論の計には 成功しなかったが
国を思う志は いまも抱いている
鞭を手にして 天子に謁し
馬を駆って 関門を出る
軮を授かって 南粤の王を繋ぎ
軾にもたれて 東方の藩を平定しよう
※ 軮(むながい)
⊂ものがたり⊃ 大業十四年(618)三月、隋の煬帝(ようだい)は江都(江蘇省揚州市)で部下の将軍に殺害され、隋は二代三十八年で滅亡します。そのころ長安を占領していた唐王李淵(りえん)は五月に帝位につき、元号を武徳と定めて唐を建国します。
当時の唐は長安を中心とする関中平野を支配するだけの政権で、各地には群雄が割拠して覇を競っていました。河南で最大の勢力を有していたのは李密(りみつ)で、はじめ魏徴(ぎちょう)は李密の挙兵に参加して動乱に投じていました。
李密が隋の江都軍と洛陽軍の挟み撃ちに遭って破れると、李密は唐に投じ、魏徴も李密に従って唐に赴きます。李密が唐に殺されると、唐を離れて河北の竇建徳(とうけんとく)の参謀になりますが、竇建徳も唐に滅ぼされたので、再び長安に行って唐に仕えました。
「述懐」(じゅつかい)は『唐詩選』巻一、五言古詩の巻頭に掲げられ、唐代の詩のはじまりを告げる作品です。制作年については諸説がありますが、ここでは武徳八年(625)に山東の徐世勣(じょせいせき)の巡撫を命じられ、潼関(陝西省華陰県の東)を出たときの作とする説に従います。
詩は四句ずつ五段に分けて読むことができ、はじめの四句は導入部です。自分の人生を振り返り、国家を思う気持ちは失っていないと詠います。「中原 還た鹿を逐い」は魏徴のこの詩によって有名であり、天下の覇権を競うことです。
つぎの四句では、出発に際しての悲壮な決意を述べるために二つの故事を引用しています。「纓を請うて南粤を繋ぎ」は、漢の武帝の命を受けた終軍(しゅうぐん)が南粤王を説得に行く故事です。『漢書』によると終軍は王の帰順に成功しますが、反対する宰相呂嘉(ろか)が兵を挙げ、南粤王とともに殺されてしまいます。
「軾に憑って東藩を下さん」は秦末に項羽と劉邦が争っていたとき、劉邦の謀士酈食其(れいいき)が斉王田広(でんこう)を説得に行ったときの故事です。酈食其は単身敵地に乗り込み、弁舌によって斉の七十余城を帰服させますが、その直後、別働隊の韓信が斉に攻め込んできたため、激怒した斉王は酈食其を大鍋で煮殺してしまいます。
二つとも弁舌の士が事に成功するが、思わぬ事態のために殺されてしまう例であり、魏徴も同じような運命が待ち構えているかも知れないと思うのです。魏徴の使命も死の危険と隣り合わせ、弁舌による巡撫使でした。