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ティェンタオの自由訳漢詩 1860

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 南北朝61ー陳後主
   玉樹後庭花             玉樹後庭花

  麗宇芳林対高閣   麗宇(れいう)  芳林(ほうりん)  高閣(こうかく)に対し
  新粧豔質本傾城   新粧(しんしょう)の豔質(れいしつ)は本(もと)より城を傾く
  映戸凝嬌乍不進   戸(と)に映り嬌(きょう)を凝(こ)らして乍(たちま)ち進まず
  出帳含態笑相迎   帳(とばり)を出(い)で態(たい)を含み  笑って相迎(あいむか)う
  妖姫臉似花含露   妖姫(ようき)の臉(かお)は花の露を含めるに似たり
  玉樹流光照後庭   玉樹(ぎょくじゅ)  流光(りゅうこう)  後庭(こうてい)を照らす

  ⊂訳⊃
          壮麗な宮殿  若葉の林  高殿に向かい合う
          化粧し立ての艶やかさ   国を傾ける美しさ
          戸に映った人影は  科をつくって立ち止まり
          帷帳から出ると    媚びを含んだ笑顔を見せる
          妖艷な宮女の顔は  露に濡れた花のようで
          月の光よ玉の樹よ  後宮の庭を照らしている


 ⊂ものがたり⊃ 陳の後主陳叔宝(ちんしゅくほう)は梁の元帝の承聖三年(553)に生まれていますので、陳の建国のとき五歳でした。父親の宣帝が国を整えている時期に二十代を過ごしていますので、生まれながらの天子と言っていいでしょう。
 北に隋という強大な国家が出現したので、その圧力の不安に堪えかねて享楽に走ったとする説もありますが、建国三世代目の皇帝として国都を華やかに飾り立てることに生きがいを見出していたという解釈もできます。
 陳叔宝は即位すると、宮中に幾つもの壮麗な宮殿を建て、日夜酒宴に明け暮れたといいます。尚書令の江総(こうそう)もいっしょになって詩を賦し、国政を顧みる者はいませんでした。
 後主の作と伝えられる「玉樹後庭花」(ぎょくじゅこうていか)は寵妃の容色を讃える詩で、自作を後宮の美女に歌わせて楽しんだといいます。七言六句の詩というのも異例で、七言の詩は江総に倣ったのでしょう。七言の句は五言よりも複雑な情緒を流暢に奏でることができる詩形です。
 「傾城」は傾城傾国(けいせいけいこく)の美女という意味ですから、陳の滅亡の運命を考えると笑って済ますことはできません。中二句は寵妃の妖艷な姿を詠うもので、頽廃の美がただよっています。
 隋の開皇八年(588)十月、文帝楊堅は陳国討伐の命令を下します。明けて九年正月元日、隋軍はいっせいに長江を渡り、十二日間の戦闘で建康城内に突入します。二十日には皇城が陥落し、後主陳叔宝は寵妃と宮中の井戸に隠れているところを見つけられ、捕えられて隋の都に連行されました。


      ◎ 本日をもって南北朝の詩を終了します。次回は
         一月一日から初唐の詩人たちを取り上げます。


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