中唐90ー柳宗元
衡陽与夢得 衡陽にて夢得と路
分路贈別 を分かち 贈別す
十年憔悴到秦京 十年 憔悴(しょうすい)して秦京(しんけい)に到る
誰料翻為嶺外行 誰か料(はか)らん 翻(ひるがえ)って嶺外(れいがい)の行(こう)を為(な)さんとは
伏波故道風煙在 伏波(ふくは)の故道(こどう) 風煙(ふうえん)在り
翁仲遺墟草樹平 翁仲(おうちゅう)が遺墟(いきょ) 草樹(そうじゅ)平らかなり
直以慵疏招物議 直(ただ)ちに慵疏(ようそ)を以て物議(ぶつぎ)を招く
休将文字占時名 文字(もんじ)を将(もつ)て時名(じめい)を占むるを休(や)めよ
今朝不用臨河別 今朝(こんちょう) 河(か)に臨みて別るるを用いず
垂涙千行便濯纓 涙を垂(た)るること千行(ちすじ)にして便(すなわ)ち纓(ひも)を濯(あら)う
⊂訳⊃
十年間の貶謫に 疲れ果てて都に着いたが
衡山の南に来るとは 思いもしなかった
伏波将軍の旧道に 砂塵が舞い
崩れた墓の石像は 草木に覆われている
都では反省不足と 物議を招き
文章で目立つのは やめにしよう
今朝 湘水に臨んで 別れる必要はない
流す涙が千筋となり 冠の纓を洗ってくれる
⊂ものがたり⊃ 憲宗の治世の元和十五年間、特にはじめの十年間は唐の中興の時代と呼ぶのにふさわしい時期でした。憲宗は安史の乱後、歴代の問題であった不順藩鎮の討平に手をつけます。不順藩鎮の勢力の強い河北を避け、河北から離れた辺境藩鎮から手をつけていったので、成果は確実に上がっていきました。
政事情勢が好転するにしたがって文運も向上してきます。当時、韓愈は古文復興運動の指導者として都ではなやかな活動をしていました。白居易は元和元年の「長恨歌」につづいて元和四年(809)には「新楽府」五十首(平成22.9.30ー10.14のブログ参照)の大作を発表し、人生最高の時を迎えていました。
そうした元和中興の時代に、柳宗元は古文の文章家としても詩人としても充分に活躍する能力を持ちながら、思わぬ不運のために永州貶謫という不遇のなかで過ごすことになったのです。文芸的に考えれば、韓愈・白居易と柳宗元は元和中興時代の表と裏の関係にあると言えるでしょう。
北還の命を受けて、柳宗元がいよいよ自分も都の表舞台で活躍できると期待に胸を膨らませたとしても不思議ではありません。二月、都に着くと永貞の政変によって貶謫された八司馬のうち五人が呼びもどされていました。しかし、翌三月になって発令されたのは地方の刺史でした。憲宗には永貞の八司馬を都で用いる気はなかったのです。
地方勤務を命ぜられた官吏は、すぐに都門を出なければまりません。柳州(広西壮族自治区柳州市)刺史になった柳宗元と連州(広東省連県)刺史になった劉禹錫は連れ立って長安を離れ、春に勇んで上京してきた同じ道を無念の思いで南へ下ってゆきました。二人は衡陽で左右に別れなければなりません。
詩題の「夢得」(ぼうとく)は劉禹錫の字(あざな)です。希望を胸にたどった北還の旅は、衡陽の地に再来したいま、疲れだけが残っています。そしてこれから、思いもしなかった嶺外の地に赴こうとしているのです。
「伏波」は漢の武帝が設けた伏波将軍のことですが、ここでは後漢の名将馬援をさし、劉禹錫が向かう道です。「翁仲」は秦の巨人の名ですが、のちに銅像もしくは墓道の石像を意味するようになりました。柳宗元が向かう柳州への道に石人の遺跡がありました。いずれも人の通らない道の比喩です。
頚聯の二句で柳宗元は再度追放にひとしい処遇になった理由について述べています。「慵疏」はぼんやりして怠けているという意味で、反省が足りないということでしょう。「文字を将て時名を占むるを休めよ」と言っており、永州で書いた詩文が都で問題になり、再貶の理由になったと解されています。柳宗元は詩文で名声をえようと思うのはやめようと思うのでした。
尾聯は悲しみの表現で、流す涙が川になって冠の纓を洗うから川のほとりを別れの場所にする必要はないと詠うのです。
衡陽与夢得 衡陽にて夢得と路
分路贈別 を分かち 贈別す
十年憔悴到秦京 十年 憔悴(しょうすい)して秦京(しんけい)に到る
誰料翻為嶺外行 誰か料(はか)らん 翻(ひるがえ)って嶺外(れいがい)の行(こう)を為(な)さんとは
伏波故道風煙在 伏波(ふくは)の故道(こどう) 風煙(ふうえん)在り
翁仲遺墟草樹平 翁仲(おうちゅう)が遺墟(いきょ) 草樹(そうじゅ)平らかなり
直以慵疏招物議 直(ただ)ちに慵疏(ようそ)を以て物議(ぶつぎ)を招く
休将文字占時名 文字(もんじ)を将(もつ)て時名(じめい)を占むるを休(や)めよ
今朝不用臨河別 今朝(こんちょう) 河(か)に臨みて別るるを用いず
垂涙千行便濯纓 涙を垂(た)るること千行(ちすじ)にして便(すなわ)ち纓(ひも)を濯(あら)う
⊂訳⊃
十年間の貶謫に 疲れ果てて都に着いたが
衡山の南に来るとは 思いもしなかった
伏波将軍の旧道に 砂塵が舞い
崩れた墓の石像は 草木に覆われている
都では反省不足と 物議を招き
文章で目立つのは やめにしよう
今朝 湘水に臨んで 別れる必要はない
流す涙が千筋となり 冠の纓を洗ってくれる
⊂ものがたり⊃ 憲宗の治世の元和十五年間、特にはじめの十年間は唐の中興の時代と呼ぶのにふさわしい時期でした。憲宗は安史の乱後、歴代の問題であった不順藩鎮の討平に手をつけます。不順藩鎮の勢力の強い河北を避け、河北から離れた辺境藩鎮から手をつけていったので、成果は確実に上がっていきました。
政事情勢が好転するにしたがって文運も向上してきます。当時、韓愈は古文復興運動の指導者として都ではなやかな活動をしていました。白居易は元和元年の「長恨歌」につづいて元和四年(809)には「新楽府」五十首(平成22.9.30ー10.14のブログ参照)の大作を発表し、人生最高の時を迎えていました。
そうした元和中興の時代に、柳宗元は古文の文章家としても詩人としても充分に活躍する能力を持ちながら、思わぬ不運のために永州貶謫という不遇のなかで過ごすことになったのです。文芸的に考えれば、韓愈・白居易と柳宗元は元和中興時代の表と裏の関係にあると言えるでしょう。
北還の命を受けて、柳宗元がいよいよ自分も都の表舞台で活躍できると期待に胸を膨らませたとしても不思議ではありません。二月、都に着くと永貞の政変によって貶謫された八司馬のうち五人が呼びもどされていました。しかし、翌三月になって発令されたのは地方の刺史でした。憲宗には永貞の八司馬を都で用いる気はなかったのです。
地方勤務を命ぜられた官吏は、すぐに都門を出なければまりません。柳州(広西壮族自治区柳州市)刺史になった柳宗元と連州(広東省連県)刺史になった劉禹錫は連れ立って長安を離れ、春に勇んで上京してきた同じ道を無念の思いで南へ下ってゆきました。二人は衡陽で左右に別れなければなりません。
詩題の「夢得」(ぼうとく)は劉禹錫の字(あざな)です。希望を胸にたどった北還の旅は、衡陽の地に再来したいま、疲れだけが残っています。そしてこれから、思いもしなかった嶺外の地に赴こうとしているのです。
「伏波」は漢の武帝が設けた伏波将軍のことですが、ここでは後漢の名将馬援をさし、劉禹錫が向かう道です。「翁仲」は秦の巨人の名ですが、のちに銅像もしくは墓道の石像を意味するようになりました。柳宗元が向かう柳州への道に石人の遺跡がありました。いずれも人の通らない道の比喩です。
頚聯の二句で柳宗元は再度追放にひとしい処遇になった理由について述べています。「慵疏」はぼんやりして怠けているという意味で、反省が足りないということでしょう。「文字を将て時名を占むるを休めよ」と言っており、永州で書いた詩文が都で問題になり、再貶の理由になったと解されています。柳宗元は詩文で名声をえようと思うのはやめようと思うのでした。
尾聯は悲しみの表現で、流す涙が川になって冠の纓を洗うから川のほとりを別れの場所にする必要はないと詠うのです。