南北朝60ー江総
閨怨篇 閨怨篇
寂寂青楼大道辺 寂寂(せきせき)たる青楼(せいろう) 大道(だいどう)の辺(ほとり)
紛紛白雪綺窗前 紛紛(ふんぷん)たる白雪(はくせつ) 綺窗(きそう)の前(まえ)
池上鴛鴦不独自 池上(ちじょう)の鴛鴦(えんおう) 独自(どくじ)ならず
帳中蘇合還空然 帳中(ちょうちゅう)の蘇合(そごう) 還(な)お空しく然ゆ
屏風有意障明月 屏風(びょうぶ) 意(い)有りて 明月を障(さえぎ)り
灯火無情照独眠 灯火(とうか) 情(じょう)無く 独眠(どくみん)を照らす
遼西水凍春応少 遼西(りょうせい) 水(みず)凍って 春(はる)応(まさ)に少なかるべし
薊北鴻来路幾千 薊北(けいほく) 鴻(がん)来たる 路(みち)幾千
願君関山及早度 願わくは君 関山(かんざん)を早きに及んで度(わた)れ
念妾桃李片時妍 念(おも)え 妾(しょう)が桃李(とうり)の片時(へんじ)妍(あでや)かなるを
⊂訳⊃
大道の辺に ひっそり立つ青い楼
白い雪が 飾り窓の前で紛々と舞う
池の鴛鴦は いつも寄りそい
帳の中で 蘇合は空しく燃えている
屏風は気を使い 月の光をさえぎるが
灯火は無常に ひとり寝の私を照らす
遼西の水は凍り 春らしい日はなく
薊州の北の雁は 旅を重ねて飛んでくる
お願いだから 関山を越えて早く帰って来てほしい
私の美しさは 桃李のようにはかないのです
⊂ものがたり⊃ 陳が江南一円を制するのは天嘉五年(564)のことで、文帝の即位後五年を要しています。文帝が亡くなると、弟の陳頊(ちんぎょく)が兄の子を廃帝にして即位し、宣帝になります。
陳の宣帝の末年、華北では大きな変化が起きていました。北周の武将楊堅(ようけん)が力を伸ばし、幼帝に迫って禅譲を受け、隋を創始したのです。隋建国の翌年は陳の太建十四年(582)にあたり、この年、陳の宣帝が亡くなり、太子の陳叔宝(ちんしゅくほう:後主)が後を継ぎます。ときに後主は三十歳でした。
江総(こうそう)は陳の後主の尚書令として有名ですが、すでに梁のときに尚書僕射になっており、陳が建国したとき四十歳でした。陰鏗(いんこう)と同様二朝に仕え、後主が即位したときは六十五歳の尚書令でした。
詩は題名が示すように閨怨詩で、遼西(遼寧省西部)に遠征している夫を思う若妻の嘆きを詠っています。遼西は北朝の領域ですので、話自体が架空です。五言詩が大勢であった南朝にあって、この詩は七言十句であるところに新しさがあります。
はじめの二句は場の設定です。若妻は大道に面した「青楼」に住んでおり、窓外に雪が降っています。中四句は身辺の風物に寄せて空閨を嘆くもので、池の「鴛鴦」だってひとりではなく、寝間の「蘇合」(西域の香、数種の香料を混ぜて作る)も空しく燃えていると詠います。
結びの四句では夫のいる遼西の冬の寒さを思い、便りを運ぶという雁でさえ、「薊北」(北京の北)から飛んで来るのにと嘆きます。そして、早く帰って来ないと、自分の美しさも衰えてしまうと訴えるのです。宮廷の遊びの詩で、宴会の座興に披露されたものでしょう。
閨怨篇 閨怨篇
寂寂青楼大道辺 寂寂(せきせき)たる青楼(せいろう) 大道(だいどう)の辺(ほとり)
紛紛白雪綺窗前 紛紛(ふんぷん)たる白雪(はくせつ) 綺窗(きそう)の前(まえ)
池上鴛鴦不独自 池上(ちじょう)の鴛鴦(えんおう) 独自(どくじ)ならず
帳中蘇合還空然 帳中(ちょうちゅう)の蘇合(そごう) 還(な)お空しく然ゆ
屏風有意障明月 屏風(びょうぶ) 意(い)有りて 明月を障(さえぎ)り
灯火無情照独眠 灯火(とうか) 情(じょう)無く 独眠(どくみん)を照らす
遼西水凍春応少 遼西(りょうせい) 水(みず)凍って 春(はる)応(まさ)に少なかるべし
薊北鴻来路幾千 薊北(けいほく) 鴻(がん)来たる 路(みち)幾千
願君関山及早度 願わくは君 関山(かんざん)を早きに及んで度(わた)れ
念妾桃李片時妍 念(おも)え 妾(しょう)が桃李(とうり)の片時(へんじ)妍(あでや)かなるを
⊂訳⊃
大道の辺に ひっそり立つ青い楼
白い雪が 飾り窓の前で紛々と舞う
池の鴛鴦は いつも寄りそい
帳の中で 蘇合は空しく燃えている
屏風は気を使い 月の光をさえぎるが
灯火は無常に ひとり寝の私を照らす
遼西の水は凍り 春らしい日はなく
薊州の北の雁は 旅を重ねて飛んでくる
お願いだから 関山を越えて早く帰って来てほしい
私の美しさは 桃李のようにはかないのです
⊂ものがたり⊃ 陳が江南一円を制するのは天嘉五年(564)のことで、文帝の即位後五年を要しています。文帝が亡くなると、弟の陳頊(ちんぎょく)が兄の子を廃帝にして即位し、宣帝になります。
陳の宣帝の末年、華北では大きな変化が起きていました。北周の武将楊堅(ようけん)が力を伸ばし、幼帝に迫って禅譲を受け、隋を創始したのです。隋建国の翌年は陳の太建十四年(582)にあたり、この年、陳の宣帝が亡くなり、太子の陳叔宝(ちんしゅくほう:後主)が後を継ぎます。ときに後主は三十歳でした。
江総(こうそう)は陳の後主の尚書令として有名ですが、すでに梁のときに尚書僕射になっており、陳が建国したとき四十歳でした。陰鏗(いんこう)と同様二朝に仕え、後主が即位したときは六十五歳の尚書令でした。
詩は題名が示すように閨怨詩で、遼西(遼寧省西部)に遠征している夫を思う若妻の嘆きを詠っています。遼西は北朝の領域ですので、話自体が架空です。五言詩が大勢であった南朝にあって、この詩は七言十句であるところに新しさがあります。
はじめの二句は場の設定です。若妻は大道に面した「青楼」に住んでおり、窓外に雪が降っています。中四句は身辺の風物に寄せて空閨を嘆くもので、池の「鴛鴦」だってひとりではなく、寝間の「蘇合」(西域の香、数種の香料を混ぜて作る)も空しく燃えていると詠います。
結びの四句では夫のいる遼西の冬の寒さを思い、便りを運ぶという雁でさえ、「薊北」(北京の北)から飛んで来るのにと嘆きます。そして、早く帰って来ないと、自分の美しさも衰えてしまうと訴えるのです。宮廷の遊びの詩で、宴会の座興に披露されたものでしょう。