中唐68ー柳宗元
構法華寺西亭 法華寺に西亭を構う (中十句)
遠岫攢衆頂 遠岫(えんしゅう) 衆頂(しゅうちょう)を攢(あつ)め
澄江抱清湾 澄江(ちょうこう) 清湾(せいわん)を抱(いだ)く
夕照臨軒堕 夕照(せきしょう) 軒(けん)に臨んで堕(お)ち
棲鳥当我還 棲鳥(せいちょう) 我れに当たって還(かえ)る
菡萏溢嘉色 菡萏(かんたん)は嘉(よ)き色を溢(あふ)らせ
篔簹遺清班 篔簹(うんとう)は清き班(まだら)を遺(のこ)す
神舒屏羇鎖 神(こころ)舒(の)びて羇鎖(きさ)を屏(しりぞ)け
志適忘幽潺 志(おもい)適(かな)いて幽潺(ゆうせん)を忘る
棄逐久枯槁 棄(す)て逐(お)われて久しく枯槁(ここう)し
迨今始開顔 今に迨(およ)んで始めて顔(かお)を開く
⊂訳⊃
遠くの山には 多くの峰がひしめき
澄んだ流れは 清らかな入江を抱く
窓からは 夕陽の沈むのが見え
塒に帰る鳥は 目の前を飛んでいく
蓮の花は めでたい色を放ち
水辺の竹には 清らかな斑点がある
心は伸びやかになり 貶謫の身は消え去り
いい気持ちになって 流す涙を忘れてしまう
追放されて 枯れ木のようになっていたが
いまになって ようやく顔をほころばせる
⊂ものがたり⊃ 中十句のはじめ六句で、西亭からの眺めをさらに詳しく描きます。ここでは陶淵明の詩句が援用されており、「夕照 軒に臨んで堕ち 棲鳥 我れに当たって還る」は陶淵明の「飲酒二十首」其の五(平成25年6月10日のブログ参照)の詩句を踏まえています。陶淵明の心境にあると言いたいのでしょう。
つぎの四句は前段二十二句の結びに相当し、「羇鎖」は繋がれていること、「幽潺」はひそかに流れる水の音をいいます。清らかな自然に接することで貶謫の身であることを忘れ、悔し涙を忘れるというのです。「顔を開く」は謝霊雲の「従弟恵連に酬ゆ」に「開顔して心胸を披(ひら)く」とあり、山水に貶謫の慰藉を求めた謝霊雲の心と通じるものです。
構法華寺西亭 法華寺に西亭を構う (中十句)
遠岫攢衆頂 遠岫(えんしゅう) 衆頂(しゅうちょう)を攢(あつ)め
澄江抱清湾 澄江(ちょうこう) 清湾(せいわん)を抱(いだ)く
夕照臨軒堕 夕照(せきしょう) 軒(けん)に臨んで堕(お)ち
棲鳥当我還 棲鳥(せいちょう) 我れに当たって還(かえ)る
菡萏溢嘉色 菡萏(かんたん)は嘉(よ)き色を溢(あふ)らせ
篔簹遺清班 篔簹(うんとう)は清き班(まだら)を遺(のこ)す
神舒屏羇鎖 神(こころ)舒(の)びて羇鎖(きさ)を屏(しりぞ)け
志適忘幽潺 志(おもい)適(かな)いて幽潺(ゆうせん)を忘る
棄逐久枯槁 棄(す)て逐(お)われて久しく枯槁(ここう)し
迨今始開顔 今に迨(およ)んで始めて顔(かお)を開く
⊂訳⊃
遠くの山には 多くの峰がひしめき
澄んだ流れは 清らかな入江を抱く
窓からは 夕陽の沈むのが見え
塒に帰る鳥は 目の前を飛んでいく
蓮の花は めでたい色を放ち
水辺の竹には 清らかな斑点がある
心は伸びやかになり 貶謫の身は消え去り
いい気持ちになって 流す涙を忘れてしまう
追放されて 枯れ木のようになっていたが
いまになって ようやく顔をほころばせる
⊂ものがたり⊃ 中十句のはじめ六句で、西亭からの眺めをさらに詳しく描きます。ここでは陶淵明の詩句が援用されており、「夕照 軒に臨んで堕ち 棲鳥 我れに当たって還る」は陶淵明の「飲酒二十首」其の五(平成25年6月10日のブログ参照)の詩句を踏まえています。陶淵明の心境にあると言いたいのでしょう。
つぎの四句は前段二十二句の結びに相当し、「羇鎖」は繋がれていること、「幽潺」はひそかに流れる水の音をいいます。清らかな自然に接することで貶謫の身であることを忘れ、悔し涙を忘れるというのです。「顔を開く」は謝霊雲の「従弟恵連に酬ゆ」に「開顔して心胸を披(ひら)く」とあり、山水に貶謫の慰藉を求めた謝霊雲の心と通じるものです。