中唐67ー柳宗元
構法華寺西亭 法華寺に西亭を構う (前十二句)
竄身楚南極 身を竄(かく)す 楚(そ)の南の極(はて)
山水窮険艱 山水 険艱(けんかん)を窮(きわ)む
歩登最高寺 歩みて最も高き寺に登り
瀟散任疏頑 瀟散(しょうさん)として疏頑(そがん)に任(まか)す
西垂下斗絶 西垂(せいすい) 下(した) 斗(けわ)しく絶たれ
欲似窺人寰 人寰(じんかん)を窺(うかが)うに似んと欲(す)
反如在幽谷 反(かえ)って幽谷(ゆうこく)に在るが如し
榛翳不可攀 榛(はしばみ)は翳(かげ)りて攀(よ)づ可(べ)からず
命童恣披翦 童(しもべ)に命じて恣(ほしいまま)に披(ひら)き翦(き)り
葺宇横断山 宇(やね)を葺(ふ)いて断山(だんざん)に横たう
割如判清濁 割(かつ)として清濁(せいだく)を判(わか)つが如く
飄若昇雲間 飄(ひょう)として雲間(うんかん)に昇るが若(ごと)し
⊂訳⊃
楚の国の南の果てに身をひそめ
山水は険しさを極める
城内でもっとも高いところにある寺に登り
思うがままに歩きまわる
寺の西は 切り立った断崖で
人の世を 天上から見わたそうとしているようだ
だがここは 深山幽谷にいるようなもの
荊が茂って これ以上は登れない
そこで下僕に命じ 思いのままに切り開き
屋根を葺いて 断崖に小屋を建てた
清濁の区分を はっきりとつけ
飄々として 雲間に昇る気分である
⊂ものがたり⊃ 柳宗元(773ー819)は河東(山西省永済県)の人。高級官僚を出す名門の家でしたが、曽祖父のころには振わなくなっていました。ひとり息子であった柳宗元は柳家再興の志を抱き、勉学に励んで貞元九年(793)、二十一歳で進士に及第します。
秘書省校書郎のあと貞元十四年(798)には集賢殿書院正字に任じられ、その三年後、二十九歳のときに藍田(陝西省藍田県)の県尉に転出します。この転出は左遷ではなく地方行政を経験させるためのもので、畿内の県であるのは優秀な官僚だったからです。
そのころ都では、秘密裏に重要な政事的結盟がすすめられていました。徳宗の皇太子李誦(りしょう)は父帝が挫折した政事改革に意欲を燃やし、侍読学士王叔文(おうしゅくぶん)の政事的意見に共鳴していました。王叔文は翰林待詔王伾(おうひ)と諮って皇太子即位後の政事集団の結成をめざし、柳宗元や劉禹錫ら若手の志ある官僚が集められます。
ところが貞元二十年(804)九月、皇太子李誦は風疾(中風)の発作にかかり、口が利けない状態になってしまいます。しかし、翌貞元二十一年正月二十三日、徳宗が六十四歳で崩じると、皇太子は言語不通のまま即位して順宗になります。王叔文らはすぐさま練り上げてきた政事改革に取り組みます。
改革派は順宗が病であったこともあって事を急ぎ過ぎたようです。なかでも王叔文は宦官が握っていた神策軍(宮城を守る親衛軍)の指揮権を手中にしようとして宦官と激しく対立します。宦官側の猛烈な巻き返しがおこり、八月五日、順宗は在位半年余で太子李純(りじゅん)に譲位となってしまいます。
即位して憲宗となった李純は王叔文一派の粛正に乗り出し、柳宗元は永州司馬に流されることになりました。司馬は名目上州の次官のひとりですが、実際は政務に従事しない冗官(じょうかん)です。柳宗元は母盧氏、従弟、表弟(母方の従弟)をともなって永州に向かい、十二月には永州に到着して龍興寺を仮居としました。
明ければ元和元年(806)です。その年の夏、柳宗元は法華寺西亭に居を移し、前後は不明ですが、五月十五日に母盧氏を亡くしています。詩題は法華寺の西に亭を構えたときの作であることを示しており、前十二句のはじめ四句は導入部です。永州に流され、城内でもっとも高いところにある法華寺に登ってあたりを歩きまわりました。
つぎの八句は「西亭」(せいてい)を構えるくだりです。寺の西の断崖からの眺めが気に入り、そこを切り開いて小屋を建てました。「割として清濁を判つが如く」は小屋から眺める景色のことと思われますが、「清濁を判つ」という表現に自分を貶謫に処した政府を批判する思いが込められているようです。清濁のはっきりした天地を眺めて、雲間に昇るような気分を味合ったと詠います。
構法華寺西亭 法華寺に西亭を構う (前十二句)
竄身楚南極 身を竄(かく)す 楚(そ)の南の極(はて)
山水窮険艱 山水 険艱(けんかん)を窮(きわ)む
歩登最高寺 歩みて最も高き寺に登り
瀟散任疏頑 瀟散(しょうさん)として疏頑(そがん)に任(まか)す
西垂下斗絶 西垂(せいすい) 下(した) 斗(けわ)しく絶たれ
欲似窺人寰 人寰(じんかん)を窺(うかが)うに似んと欲(す)
反如在幽谷 反(かえ)って幽谷(ゆうこく)に在るが如し
榛翳不可攀 榛(はしばみ)は翳(かげ)りて攀(よ)づ可(べ)からず
命童恣披翦 童(しもべ)に命じて恣(ほしいまま)に披(ひら)き翦(き)り
葺宇横断山 宇(やね)を葺(ふ)いて断山(だんざん)に横たう
割如判清濁 割(かつ)として清濁(せいだく)を判(わか)つが如く
飄若昇雲間 飄(ひょう)として雲間(うんかん)に昇るが若(ごと)し
⊂訳⊃
楚の国の南の果てに身をひそめ
山水は険しさを極める
城内でもっとも高いところにある寺に登り
思うがままに歩きまわる
寺の西は 切り立った断崖で
人の世を 天上から見わたそうとしているようだ
だがここは 深山幽谷にいるようなもの
荊が茂って これ以上は登れない
そこで下僕に命じ 思いのままに切り開き
屋根を葺いて 断崖に小屋を建てた
清濁の区分を はっきりとつけ
飄々として 雲間に昇る気分である
⊂ものがたり⊃ 柳宗元(773ー819)は河東(山西省永済県)の人。高級官僚を出す名門の家でしたが、曽祖父のころには振わなくなっていました。ひとり息子であった柳宗元は柳家再興の志を抱き、勉学に励んで貞元九年(793)、二十一歳で進士に及第します。
秘書省校書郎のあと貞元十四年(798)には集賢殿書院正字に任じられ、その三年後、二十九歳のときに藍田(陝西省藍田県)の県尉に転出します。この転出は左遷ではなく地方行政を経験させるためのもので、畿内の県であるのは優秀な官僚だったからです。
そのころ都では、秘密裏に重要な政事的結盟がすすめられていました。徳宗の皇太子李誦(りしょう)は父帝が挫折した政事改革に意欲を燃やし、侍読学士王叔文(おうしゅくぶん)の政事的意見に共鳴していました。王叔文は翰林待詔王伾(おうひ)と諮って皇太子即位後の政事集団の結成をめざし、柳宗元や劉禹錫ら若手の志ある官僚が集められます。
ところが貞元二十年(804)九月、皇太子李誦は風疾(中風)の発作にかかり、口が利けない状態になってしまいます。しかし、翌貞元二十一年正月二十三日、徳宗が六十四歳で崩じると、皇太子は言語不通のまま即位して順宗になります。王叔文らはすぐさま練り上げてきた政事改革に取り組みます。
改革派は順宗が病であったこともあって事を急ぎ過ぎたようです。なかでも王叔文は宦官が握っていた神策軍(宮城を守る親衛軍)の指揮権を手中にしようとして宦官と激しく対立します。宦官側の猛烈な巻き返しがおこり、八月五日、順宗は在位半年余で太子李純(りじゅん)に譲位となってしまいます。
即位して憲宗となった李純は王叔文一派の粛正に乗り出し、柳宗元は永州司馬に流されることになりました。司馬は名目上州の次官のひとりですが、実際は政務に従事しない冗官(じょうかん)です。柳宗元は母盧氏、従弟、表弟(母方の従弟)をともなって永州に向かい、十二月には永州に到着して龍興寺を仮居としました。
明ければ元和元年(806)です。その年の夏、柳宗元は法華寺西亭に居を移し、前後は不明ですが、五月十五日に母盧氏を亡くしています。詩題は法華寺の西に亭を構えたときの作であることを示しており、前十二句のはじめ四句は導入部です。永州に流され、城内でもっとも高いところにある法華寺に登ってあたりを歩きまわりました。
つぎの八句は「西亭」(せいてい)を構えるくだりです。寺の西の断崖からの眺めが気に入り、そこを切り開いて小屋を建てました。「割として清濁を判つが如く」は小屋から眺める景色のことと思われますが、「清濁を判つ」という表現に自分を貶謫に処した政府を批判する思いが込められているようです。清濁のはっきりした天地を眺めて、雲間に昇るような気分を味合ったと詠います。