中唐52ー韓愈
左遷至藍関 左遷せられて藍関に
示姪孫湘 至り 姪孫湘に示す
一封朝奏九重天 一封(いっぽう) 朝(あした)に奏す 九重(きゅうちょう)の天
夕貶潮州路八千 夕べに潮州(ちょうしゅう)に貶(へん)せらる 路(みち)八千
欲為聖明除弊事 聖明(せいめい)の為に弊事(へいじ)を除かんと欲(ほっ)す
肯将衰朽惜残年 肯(あえ)て衰朽(すいきゅう)を将(もっ)て残年を惜(おし)まんや
雲横秦嶺家何在 雲は秦嶺(しんれい)に横たわって 家 何(いず)くにか在る
雪擁藍関馬不前 雪は藍関(らんかん)を擁(よう)して 馬 前(すす)まず
知汝遠来応有意 知る 汝(なんじ)が遠く来たる 応(まさ)に意(い)有るべし
好収吾骨瘴江辺 好し 吾(わ)が骨を収(おさ)めよ 瘴江(しょうこう)の辺(へん)
⊂訳⊃
朝はやく 一通の上奏文を宮中に差し出し
夕べには 八千里のかなた潮州に流される
天子のため 国弊を除こうと思っただけで
衰朽の身に 余生を惜しむ気持ちはない
雲は秦嶺に横たわって わが家のあたりも見えず
雪は藍関を埋めつくし 乗馬も前に進もうとしない
遥々とここまで来てくれた 汝の気持ちはわかっている
いいだろう わしの骨を拾ってくれ あの瘴江の川岸で
⊂ものがたり⊃ 憲宗は藩鎮対策に成果をあげ、唐の中興の英主と称されますが、治世の末年には仏教に傾斜するようになります。当時、鳳翔府(陝西省鳳翔県)の法門寺に仏舎利が安置されており、三十年に一度開帳されていました。元和十四年(819)はその開帳の年に当たっており、憲宗は仏舎利を宮中に迎えて正月三日間の祭りを行ない、ひろく世人に礼拝させました。
儒学の徒である韓愈はそれを黙視できず、「仏骨を論ずる表」を呈して「伏して惟(おもんみ)るに、仏なる者は夷狄の一法のみ」と論じました。それが憲宗の逆鱗に触れ、死一等を減じられて潮州(広東省潮州市)に流されました。ときに韓愈は五十二歳。詩はそのときのもので、家族を伴なって藍関(陝西省藍田県)まで来たとき、次兄韓介(かんかい)の孫の韓湘(かんしょう)が追いかけて来たのに与えた詩です。
はじめの二句はすでに述べた貶謫の次第です。中四句は左遷に対する心境と都をあとにする情景を述べます。「残年」は衰えた命、力を失った命の意味で、なくなりかけた余生を惜しみはしないと、憤りをこめて詠います。そしてあたりを見わたして頚聯の有名な対句を述べます。この対句の情景描写は作者の心境の喩えにもなっており、「残年を惜まんや」と言っていながら本心は不満でいっぱいです。
結びの二句は「姪孫湘」(てつそんしょう)に贈る言葉で、お前がここまで来てくれた志はよく分かっている。「瘴江」は瘴癘(しょうれい)の気(毒気)に満ちた大河のことで、ここでは潮州を流れる韓江のことでしょう。その地で自分が死ねば骨を拾ってくれ、つまり自分の志を継いでくれといい残すのです。
しかし、翌年正月、憲宗が急死し、韓愈は九月に赦されて都にもどり国子監祭酒に復帰します。そのごは兵部侍郎、吏部侍郎を歴任、穆宗の長慶四年(824)になくなりました。享年五十七歳です。
左遷至藍関 左遷せられて藍関に
示姪孫湘 至り 姪孫湘に示す
一封朝奏九重天 一封(いっぽう) 朝(あした)に奏す 九重(きゅうちょう)の天
夕貶潮州路八千 夕べに潮州(ちょうしゅう)に貶(へん)せらる 路(みち)八千
欲為聖明除弊事 聖明(せいめい)の為に弊事(へいじ)を除かんと欲(ほっ)す
肯将衰朽惜残年 肯(あえ)て衰朽(すいきゅう)を将(もっ)て残年を惜(おし)まんや
雲横秦嶺家何在 雲は秦嶺(しんれい)に横たわって 家 何(いず)くにか在る
雪擁藍関馬不前 雪は藍関(らんかん)を擁(よう)して 馬 前(すす)まず
知汝遠来応有意 知る 汝(なんじ)が遠く来たる 応(まさ)に意(い)有るべし
好収吾骨瘴江辺 好し 吾(わ)が骨を収(おさ)めよ 瘴江(しょうこう)の辺(へん)
⊂訳⊃
朝はやく 一通の上奏文を宮中に差し出し
夕べには 八千里のかなた潮州に流される
天子のため 国弊を除こうと思っただけで
衰朽の身に 余生を惜しむ気持ちはない
雲は秦嶺に横たわって わが家のあたりも見えず
雪は藍関を埋めつくし 乗馬も前に進もうとしない
遥々とここまで来てくれた 汝の気持ちはわかっている
いいだろう わしの骨を拾ってくれ あの瘴江の川岸で
⊂ものがたり⊃ 憲宗は藩鎮対策に成果をあげ、唐の中興の英主と称されますが、治世の末年には仏教に傾斜するようになります。当時、鳳翔府(陝西省鳳翔県)の法門寺に仏舎利が安置されており、三十年に一度開帳されていました。元和十四年(819)はその開帳の年に当たっており、憲宗は仏舎利を宮中に迎えて正月三日間の祭りを行ない、ひろく世人に礼拝させました。
儒学の徒である韓愈はそれを黙視できず、「仏骨を論ずる表」を呈して「伏して惟(おもんみ)るに、仏なる者は夷狄の一法のみ」と論じました。それが憲宗の逆鱗に触れ、死一等を減じられて潮州(広東省潮州市)に流されました。ときに韓愈は五十二歳。詩はそのときのもので、家族を伴なって藍関(陝西省藍田県)まで来たとき、次兄韓介(かんかい)の孫の韓湘(かんしょう)が追いかけて来たのに与えた詩です。
はじめの二句はすでに述べた貶謫の次第です。中四句は左遷に対する心境と都をあとにする情景を述べます。「残年」は衰えた命、力を失った命の意味で、なくなりかけた余生を惜しみはしないと、憤りをこめて詠います。そしてあたりを見わたして頚聯の有名な対句を述べます。この対句の情景描写は作者の心境の喩えにもなっており、「残年を惜まんや」と言っていながら本心は不満でいっぱいです。
結びの二句は「姪孫湘」(てつそんしょう)に贈る言葉で、お前がここまで来てくれた志はよく分かっている。「瘴江」は瘴癘(しょうれい)の気(毒気)に満ちた大河のことで、ここでは潮州を流れる韓江のことでしょう。その地で自分が死ねば骨を拾ってくれ、つまり自分の志を継いでくれといい残すのです。
しかし、翌年正月、憲宗が急死し、韓愈は九月に赦されて都にもどり国子監祭酒に復帰します。そのごは兵部侍郎、吏部侍郎を歴任、穆宗の長慶四年(824)になくなりました。享年五十七歳です。