中唐48ー韓愈
酔留東野 酔って東野を留む (前半八句)
昔年因読李白杜甫詩 昔年(せきねん) 李白杜甫の詩を読むに因(よ)って
長恨二人不相従 長(つね)に恨む 二人の相従(あいしたが)わざりしことを
吾与東野生並世 吾(わ)れ東野(とうや)と 生まれて世を並べたり
如何復躡二子蹤 如何(いかん)ぞ復(ま)た二子(にし)の蹤(しょう)を躡(ふ)まんや
東野不得官 東野は官(かん)を得ず
白首誇龍鍾 白首(はくしゅ) 龍鍾(りょうしょう)たるを誇る
韓子稍姦黠 韓子(かんし)は稍(や)や姦黠(かんかつ)なり
自慙青蒿倚長松 自ら慙(は)ず 青蒿(せいこう)の長松(ちょうしょう)に倚(よ)るを
⊂訳⊃
昔 李白と杜甫の詩を読んでから
二人が行動を共にしなかったことを残念に思う
ところで 孟君よ 私は君と同じ世に生まれ
李白と杜甫の轍を 踏みたくはない
君は官職に恵まれず
よぼよぼの 白髪になっても誇り高い
恥かしいが 私はいくらか狡猾で
艾のように 松の大木に縋っている
⊂ものがたり⊃ 徳宗の貞元年間(785ー804)は中唐の自由な雰囲気のはじまりの時期にあたります。同時に中唐を代表する有力詩人が揃って進士に及第し、活動を開始する時期でもあります。進士及第年の早い順からあげますと、韓愈、柳宗元・劉禹錫、白居易の順になります。
憲宗の元和年間(806ー819)は唐の中興の時代と称され、安史の乱によって崩壊した政事が立ち直る時期です。文学では韓愈の古文復興運動が開花し、白居易は元和元年(806)に大作「長恨歌」(平成22.9.8ー23のブログ参照)を発表して新時代の詩人として登場します。
韓愈(かんゆ:768ー824)は河陽(河南省孟県)の人。三歳で父をうしない、十四歳で長兄もなくなり兄嫁に養われます。貞元八年(792)、二十五歳で進士に及第しましたが、寒門出身のため吏部の詮試(せんし:博学宏詞科)に及第できず、節度使の幕下を転々とします。
詩題の「東野」は韓愈の弟子として有名な孟郊(もこう)の字(あざな)です。貞元十二年(796)の秋、韓愈は宣武節度使董晋(とうしん)に招かれて宣武軍観察推官になり、汴州(河南省開封市)にいました。孟郊は貞元十四年(798)の春、進士に及第しましたが官職をえられず、南方への旅の途中、汴州に立ち寄りました。韓愈はしばらく汴州にとどまるよう孟郊を引き止め、詩はそのときのものです。
四句ずつに分けて読むことができますが、一句の字数は統一されておらず極めて自由な詠い方であるのが注目されます。はじめの四句で李白と杜甫が行を共にしていたらどんなに素晴らしかったろうといい、孟郊に行動を共にしようといいます。孟郊は韓愈より十七歳の年長で、このとき四十八歳でした。
つぎの四句では老いて官職がえられなくても誇り高い孟郊を「白首 龍鍾たるを誇る」とほめ、節度使の幕下にいる自分を卑下しています。
酔留東野 酔って東野を留む (前半八句)
昔年因読李白杜甫詩 昔年(せきねん) 李白杜甫の詩を読むに因(よ)って
長恨二人不相従 長(つね)に恨む 二人の相従(あいしたが)わざりしことを
吾与東野生並世 吾(わ)れ東野(とうや)と 生まれて世を並べたり
如何復躡二子蹤 如何(いかん)ぞ復(ま)た二子(にし)の蹤(しょう)を躡(ふ)まんや
東野不得官 東野は官(かん)を得ず
白首誇龍鍾 白首(はくしゅ) 龍鍾(りょうしょう)たるを誇る
韓子稍姦黠 韓子(かんし)は稍(や)や姦黠(かんかつ)なり
自慙青蒿倚長松 自ら慙(は)ず 青蒿(せいこう)の長松(ちょうしょう)に倚(よ)るを
⊂訳⊃
昔 李白と杜甫の詩を読んでから
二人が行動を共にしなかったことを残念に思う
ところで 孟君よ 私は君と同じ世に生まれ
李白と杜甫の轍を 踏みたくはない
君は官職に恵まれず
よぼよぼの 白髪になっても誇り高い
恥かしいが 私はいくらか狡猾で
艾のように 松の大木に縋っている
⊂ものがたり⊃ 徳宗の貞元年間(785ー804)は中唐の自由な雰囲気のはじまりの時期にあたります。同時に中唐を代表する有力詩人が揃って進士に及第し、活動を開始する時期でもあります。進士及第年の早い順からあげますと、韓愈、柳宗元・劉禹錫、白居易の順になります。
憲宗の元和年間(806ー819)は唐の中興の時代と称され、安史の乱によって崩壊した政事が立ち直る時期です。文学では韓愈の古文復興運動が開花し、白居易は元和元年(806)に大作「長恨歌」(平成22.9.8ー23のブログ参照)を発表して新時代の詩人として登場します。
韓愈(かんゆ:768ー824)は河陽(河南省孟県)の人。三歳で父をうしない、十四歳で長兄もなくなり兄嫁に養われます。貞元八年(792)、二十五歳で進士に及第しましたが、寒門出身のため吏部の詮試(せんし:博学宏詞科)に及第できず、節度使の幕下を転々とします。
詩題の「東野」は韓愈の弟子として有名な孟郊(もこう)の字(あざな)です。貞元十二年(796)の秋、韓愈は宣武節度使董晋(とうしん)に招かれて宣武軍観察推官になり、汴州(河南省開封市)にいました。孟郊は貞元十四年(798)の春、進士に及第しましたが官職をえられず、南方への旅の途中、汴州に立ち寄りました。韓愈はしばらく汴州にとどまるよう孟郊を引き止め、詩はそのときのものです。
四句ずつに分けて読むことができますが、一句の字数は統一されておらず極めて自由な詠い方であるのが注目されます。はじめの四句で李白と杜甫が行を共にしていたらどんなに素晴らしかったろうといい、孟郊に行動を共にしようといいます。孟郊は韓愈より十七歳の年長で、このとき四十八歳でした。
つぎの四句では老いて官職がえられなくても誇り高い孟郊を「白首 龍鍾たるを誇る」とほめ、節度使の幕下にいる自分を卑下しています。