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ティェンタオの自由訳漢詩 2038

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 中唐35ー李益
    汴河曲               汴河の曲

  汴水東流無限春   汴水(べんすい)東流す  無限(むげん)の春
  隋家宮闕已成塵   隋家(ずいか)の宮闕(きゅうけつ)  已(すで)に塵(ちり)と成れり
  行人莫上長堤望   行人(こうじん)  長堤(ちょうてい)に上りて望むこと莫(な)かれ
  風起楊花愁殺人   風起こりて楊花(ようか)  人を愁殺(しゅうさつ)せん

  ⊂訳⊃
          汴水は東へ流れ  春の愁いは限りない

          隋の離宮は     すでに廃墟と化している

          旅人よ  堤に上って眺めるのはよしたがいい

          柳絮は風に舞い  人は深い悲しみに包まれる


 ⊂ものがたり⊃ 大暦十四年(775)五月に代宗が崩じ、徳宗が即位します。三十八歳の徳宗はやる気満々の皇帝です。まず税制改革に打って出て、ついで不順藩鎮の討伐に乗り出します。ところが討伐は思うように進みません。討伐に向かう途中の兵が、待遇改善を要求して反乱を起こし、徳宗は一時、奉天県(陝西省乾県)に難を避けるほどでした。討伐は失敗に終わります。
 大暦時代に活躍した詩人の多くは貞元の世になっても活躍します。李益(りえき:748ー829?)は隴西姑蔵(甘粛省武威県)の人。大暦四年(769)に二十二歳で進士に及第し、鄭県(陝西省華県)の県尉になります。しかし、昇進が遅いのに不満を抱いて辞職し、河北地方を遊歴して幽州(北京)や邠寧(甘粛省東部)の節度使の幕僚になりました。
 詩題の「汴河(べんか)の曲」は新楽府題です。汴河は汴水ともいい、黄河と淮水を繋ぐ運河の役割を果たしていました。隋の煬帝は運河の西南側に長大な堤を築き、堤上に楊柳を植え、運河沿いに四十余か所もの離宮を置いて行楽の場としました。「隋家の宮闕」はこの離宮のことで、唐代には廃墟となっていました。
 汴水は天井川で、堤は高く盛り上がっています。だから転句で「長堤に上りて」といいます。唐代の詩人にとって隋の栄華の跡は懐古詩の好題材でした。

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