中唐22ー李端
送劉侍郎 劉侍郎を送る
幾人同入謝宣城 幾人か同(とも)に入る 謝宣城(しゃせんじょう)
未及酬恩隔死生 未(いま)だ恩に酬(むく)いるに及ばずして死生を隔(へだ)つ
唯有夜猿知客恨 唯だ夜猿(やえん)の客恨(かくこん)を知る有り
嶧陽渓路第三声 嶧陽渓路(えきようけいろ) 第三声(だいさんせい)
⊂訳⊃
幾人が従っただろうか 謝朓のようなあなたに
ご恩に酬いる暇もなく 人々は死んでしまった
夜半に聞く猿だけは 旅の恨みを知っている
嶧陽の谷川に沿った路 聞こえてくる猿の第三声
⊂ものがたり⊃ 詩題の「劉侍郎」(りゅうじろう)は不明です。上司であった劉侍郎が江南へ左遷されることになり、送別の宴で披露した作品と思われます。「謝宣城」は南朝斉の詩人謝朓(平成25・11.19のブログ参照)のことで、ここでは劉侍郎をさします。同僚だった者の多くは死んでしまったと詠っていますので、老年になっての作でしょう。
「嶧陽」は嶧山の南側をいい、嶧山は山東省鄒県の東南と江蘇省邳県の西南にあります。ここでは江南への道筋にあたる後者と思われます。江南に棲む手長猿の啼き声はもの哀しく、酈道元(れきどうげん)の『水経注』に「巴東の三峡、巫峡長く、猿鳴くこと三声にして、涙裳を沾(うるお)す」とあります。それを踏まえて、左遷が不当なものであることを仄めかすのです。
李端はいったん辞任したあと、杭州(浙江省杭州市)の司馬に任じられますが、俗務を好みませんでした。衡山(河南省衡陽県)に移住して隠者の生活を送り、徳宗の貞元八年(792)に亡くなりました。享年六十歳です。
送劉侍郎 劉侍郎を送る
幾人同入謝宣城 幾人か同(とも)に入る 謝宣城(しゃせんじょう)
未及酬恩隔死生 未(いま)だ恩に酬(むく)いるに及ばずして死生を隔(へだ)つ
唯有夜猿知客恨 唯だ夜猿(やえん)の客恨(かくこん)を知る有り
嶧陽渓路第三声 嶧陽渓路(えきようけいろ) 第三声(だいさんせい)
⊂訳⊃
幾人が従っただろうか 謝朓のようなあなたに
ご恩に酬いる暇もなく 人々は死んでしまった
夜半に聞く猿だけは 旅の恨みを知っている
嶧陽の谷川に沿った路 聞こえてくる猿の第三声
⊂ものがたり⊃ 詩題の「劉侍郎」(りゅうじろう)は不明です。上司であった劉侍郎が江南へ左遷されることになり、送別の宴で披露した作品と思われます。「謝宣城」は南朝斉の詩人謝朓(平成25・11.19のブログ参照)のことで、ここでは劉侍郎をさします。同僚だった者の多くは死んでしまったと詠っていますので、老年になっての作でしょう。
「嶧陽」は嶧山の南側をいい、嶧山は山東省鄒県の東南と江蘇省邳県の西南にあります。ここでは江南への道筋にあたる後者と思われます。江南に棲む手長猿の啼き声はもの哀しく、酈道元(れきどうげん)の『水経注』に「巴東の三峡、巫峡長く、猿鳴くこと三声にして、涙裳を沾(うるお)す」とあります。それを踏まえて、左遷が不当なものであることを仄めかすのです。
李端はいったん辞任したあと、杭州(浙江省杭州市)の司馬に任じられますが、俗務を好みませんでした。衡山(河南省衡陽県)に移住して隠者の生活を送り、徳宗の貞元八年(792)に亡くなりました。享年六十歳です。