中唐10ー顧況
囝 囝 (後半十一句)
郎罷別囝 郎罷(ろうは) 囝(けん)に別る
吾悔生汝 吾(わ)れ汝(なんじ)を生みしを悔(く)ゆ
及汝既生 汝の既(すで)に生まるるに及び
人勧不挙 人 挙(あ)げざるを勧(すす)む
不従人言 人の言(げん)に従わず
果獲是苦 果(はた)して是(こ)の苦を獲(え)たり
囝別郎罷 囝 郎罷に別れ
心摧血下 心(しん)摧(くだ)け 血下(くだ)る
隔地絶天 地を隔(へだ)て 天を絶(た)ち
及到黄泉 黄泉(こうせん)に到るに及ぶまで
不得在郎罷前 郎罷の前に在るを得ざらん
⊂訳⊃
父親は子に分かれるときに言う
「お前を生んだことを後悔する
お前が生まれるとき
人々は生まないように勧めた
人のいうことを聞かなかったので
この苦しみを受けるのだ」
子は父親と別れるとき
心は砕け 血の涙が流れる
「天と地ほどに遠くはなれ
あの世へ逝ってしまうまで
もはやお側にお仕えすることはできません」
⊂ものがたり⊃ 後半十一句のはじめ六句は、囝がいよいよ遠くへ連れ去られるときの父親の言葉、つぎの五句は囝の別れの言葉です。「前に在るを得ざらん」を「お側にお仕えすることはできません」と訳して囝の健気な心映えを示しました。
宋代の呉曾(ごそう)が書いた『能改斉漫録』という書によると、徳宗の貞元三年(787)に十六歳の白居易が初めて長安に赴き、顧況に面会しました。そのときすでに六十歳を越えていた顧況は、若い白居易の名刺をみて「長安 米貴(たか)し、居(きょ) 大いに易(やす)からず」と言ったそうです。だが、白居易が差し出した作品(平成22年8月12日のブログ参照)に目を通すや、その詩句に感心し、「箇(こ)の語を道(い)い得れば、居 亦た何ぞ難(かた)からんや、前言は之れに戯(たわむ)れしのみ」と言って称賛したといいます。
囝 囝 (後半十一句)
郎罷別囝 郎罷(ろうは) 囝(けん)に別る
吾悔生汝 吾(わ)れ汝(なんじ)を生みしを悔(く)ゆ
及汝既生 汝の既(すで)に生まるるに及び
人勧不挙 人 挙(あ)げざるを勧(すす)む
不従人言 人の言(げん)に従わず
果獲是苦 果(はた)して是(こ)の苦を獲(え)たり
囝別郎罷 囝 郎罷に別れ
心摧血下 心(しん)摧(くだ)け 血下(くだ)る
隔地絶天 地を隔(へだ)て 天を絶(た)ち
及到黄泉 黄泉(こうせん)に到るに及ぶまで
不得在郎罷前 郎罷の前に在るを得ざらん
⊂訳⊃
父親は子に分かれるときに言う
「お前を生んだことを後悔する
お前が生まれるとき
人々は生まないように勧めた
人のいうことを聞かなかったので
この苦しみを受けるのだ」
子は父親と別れるとき
心は砕け 血の涙が流れる
「天と地ほどに遠くはなれ
あの世へ逝ってしまうまで
もはやお側にお仕えすることはできません」
⊂ものがたり⊃ 後半十一句のはじめ六句は、囝がいよいよ遠くへ連れ去られるときの父親の言葉、つぎの五句は囝の別れの言葉です。「前に在るを得ざらん」を「お側にお仕えすることはできません」と訳して囝の健気な心映えを示しました。
宋代の呉曾(ごそう)が書いた『能改斉漫録』という書によると、徳宗の貞元三年(787)に十六歳の白居易が初めて長安に赴き、顧況に面会しました。そのときすでに六十歳を越えていた顧況は、若い白居易の名刺をみて「長安 米貴(たか)し、居(きょ) 大いに易(やす)からず」と言ったそうです。だが、白居易が差し出した作品(平成22年8月12日のブログ参照)に目を通すや、その詩句に感心し、「箇(こ)の語を道(い)い得れば、居 亦た何ぞ難(かた)からんや、前言は之れに戯(たわむ)れしのみ」と言って称賛したといいます。