盛唐76ー岑参
胡笳歌 送顔 胡笳の歌 顔真卿が使
真卿使赴河隴 して河隴に赴くを送る
君不聞胡笳声最悲 君聞かずや 胡笳(こか)の声 最(もっと)も悲しきを
紫髯緑眼胡人吹 紫髯(しぜん)緑眼(りょくがん)の 胡人(こじん)吹く
吹之一曲猶未了 之(こ)れを吹いて 一曲猶(な)お未(いま)だ了(おわ)らざるに
愁殺楼蘭征戍児 愁殺(しゅうさつ)す 楼蘭(ろうらん) 征戍(せいじゅ)の児(こ)
涼秋八月蕭関道 涼秋(りょうしゅう) 八月 蕭関(しょうかん)の道
北風吹断天山草 北風(ほくふう) 吹断(すいだん)す 天山(てんざん)の草
崑崙山南月欲斜 崑崙山南(こんろんさんなん) 月 斜(なな)めならんと欲し
胡人向月吹胡笳 胡人(こじん) 月に向かって胡笳(こか)を吹く
胡笳怨兮将送君 胡笳は怨(うら)んで 将(まさ)に君を送らんとし
秦山遥望隴山雲 秦山(しんざん) 遥かに望む 隴山(ろうざん)の雲
辺城夜夜多愁夢 辺城(へんじょう) 夜夜(よよ) 愁夢(しゅうむ)多からん
向月胡笳誰喜聞 月に向かって 胡笳(こか) 誰れか聞くを喜ばん
⊂訳⊃
聞こえるでしょう 胡笳の悲しげな調べが
紫髯緑眼の 胡人が吹いている
吹き始めて まだ一曲が終わらないのに
楼蘭に旅立つ者は すっかり沈みこむ
涼秋の八月 蕭関の道
北風が吹き荒れて 天山の草も千切れ飛ぶ
崑崙山の南に 月が斜めに沈もうとするとき
月に向かって 胡人は胡笳を吹くだろう
歎くような胡笳の音が いまあなたを送り出そうとし
秦山から望む隴山には 部厚い雲がかかっている
辺境の町では 夜ごとに悲しい夢をみるでしょう
月に向かって吹く胡笳を 誰が好んで聞くだろうか
⊂ものがたり⊃ 詩題の「顔真卿」(がんしんけい)はこのとき監察御史、岑参(しんじん)の上司でした。天宝七載(748)に顔真卿が「河隴」(かろう)に赴くのを見送る詩で、「河隴」は河西節度使の使府(甘粛省武威県)と隴右節度使の使府(青海省西寧県)のことです。
全体は四句ずつ三段に分けて構成されています。はじめの四句で「紫髯緑眼」の胡人を登場させます。送別会の宴会で笛を奏していたのでしょう。「楼蘭征戍の児」は西域に赴任する者を一般的に言うもので、河隴は楼蘭より手前にあります。楼蘭は漢代の国で、すでに滅んでいますので、楼蘭を攻めに行くわけではありません。
つぎの四句は顔真卿が行く道の風景を想像して詠うものです。このときはまだ、岑参は西域に行っていませんでした。「蕭関」(甘粛省固原県)は長安の西、河隴の入口にあたります。「天山」は河隴の遥か西になりますが、西域の北風を誇張して言うのでしょう。「崑崙山」は想像上の山で、中国の極西にあると考えられていました。
最後の四句は結びで、「秦山」は長安付近を指す語です。長安の西の「隴山」(蕭関付近の山)には部厚い雲がかかっていると、前途の苦労を詠います。そして、辺城の「愁夢」と月夜の「胡笳」を出して西域の憂愁を詠いあげるのです。
送別会の宴席で披露された作品と思われますが、送別詩としては大作であり、七言絶句が多かった辺塞詩に七言古詩で挑戦した意欲作です。
胡笳歌 送顔 胡笳の歌 顔真卿が使
真卿使赴河隴 して河隴に赴くを送る
君不聞胡笳声最悲 君聞かずや 胡笳(こか)の声 最(もっと)も悲しきを
紫髯緑眼胡人吹 紫髯(しぜん)緑眼(りょくがん)の 胡人(こじん)吹く
吹之一曲猶未了 之(こ)れを吹いて 一曲猶(な)お未(いま)だ了(おわ)らざるに
愁殺楼蘭征戍児 愁殺(しゅうさつ)す 楼蘭(ろうらん) 征戍(せいじゅ)の児(こ)
涼秋八月蕭関道 涼秋(りょうしゅう) 八月 蕭関(しょうかん)の道
北風吹断天山草 北風(ほくふう) 吹断(すいだん)す 天山(てんざん)の草
崑崙山南月欲斜 崑崙山南(こんろんさんなん) 月 斜(なな)めならんと欲し
胡人向月吹胡笳 胡人(こじん) 月に向かって胡笳(こか)を吹く
胡笳怨兮将送君 胡笳は怨(うら)んで 将(まさ)に君を送らんとし
秦山遥望隴山雲 秦山(しんざん) 遥かに望む 隴山(ろうざん)の雲
辺城夜夜多愁夢 辺城(へんじょう) 夜夜(よよ) 愁夢(しゅうむ)多からん
向月胡笳誰喜聞 月に向かって 胡笳(こか) 誰れか聞くを喜ばん
⊂訳⊃
聞こえるでしょう 胡笳の悲しげな調べが
紫髯緑眼の 胡人が吹いている
吹き始めて まだ一曲が終わらないのに
楼蘭に旅立つ者は すっかり沈みこむ
涼秋の八月 蕭関の道
北風が吹き荒れて 天山の草も千切れ飛ぶ
崑崙山の南に 月が斜めに沈もうとするとき
月に向かって 胡人は胡笳を吹くだろう
歎くような胡笳の音が いまあなたを送り出そうとし
秦山から望む隴山には 部厚い雲がかかっている
辺境の町では 夜ごとに悲しい夢をみるでしょう
月に向かって吹く胡笳を 誰が好んで聞くだろうか
⊂ものがたり⊃ 詩題の「顔真卿」(がんしんけい)はこのとき監察御史、岑参(しんじん)の上司でした。天宝七載(748)に顔真卿が「河隴」(かろう)に赴くのを見送る詩で、「河隴」は河西節度使の使府(甘粛省武威県)と隴右節度使の使府(青海省西寧県)のことです。
全体は四句ずつ三段に分けて構成されています。はじめの四句で「紫髯緑眼」の胡人を登場させます。送別会の宴会で笛を奏していたのでしょう。「楼蘭征戍の児」は西域に赴任する者を一般的に言うもので、河隴は楼蘭より手前にあります。楼蘭は漢代の国で、すでに滅んでいますので、楼蘭を攻めに行くわけではありません。
つぎの四句は顔真卿が行く道の風景を想像して詠うものです。このときはまだ、岑参は西域に行っていませんでした。「蕭関」(甘粛省固原県)は長安の西、河隴の入口にあたります。「天山」は河隴の遥か西になりますが、西域の北風を誇張して言うのでしょう。「崑崙山」は想像上の山で、中国の極西にあると考えられていました。
最後の四句は結びで、「秦山」は長安付近を指す語です。長安の西の「隴山」(蕭関付近の山)には部厚い雲がかかっていると、前途の苦労を詠います。そして、辺城の「愁夢」と月夜の「胡笳」を出して西域の憂愁を詠いあげるのです。
送別会の宴席で披露された作品と思われますが、送別詩としては大作であり、七言絶句が多かった辺塞詩に七言古詩で挑戦した意欲作です。