盛唐66ー賈至
早朝大明宮 早に大明宮に朝し
呈両省僚友 両省の僚友に呈す
銀燭朝薫紫陌長 銀燭(ぎんしょく) 朝(あした)に薫(くん)じて紫陌(しはく)長し
禁城春色暁蒼蒼 禁城の春色(しゅんしょく) 暁(あかつき)に蒼蒼(そうそう)たり
千条弱柳垂青琑 千条の弱柳(じゃくりゅう)は青琑(せいさ)に垂(た)れ
百囀流鶯繞建章 百囀(ひゃくてん)の流鶯(りゅうおう)は建章(けんしょう)を繞(むぐ)る
剣珮声随玉墀歩 剣珮(けんぱい) 声は玉墀(ぎょくち)の歩(ほ)に随い
衣冠身惹御炉香 衣冠(いかん) 身には御炉(ぎょろ)の香(こう)を惹(ひ)けり
共沐恩波鳳池上 共に恩波(おんぱ)に沐(もく)す 鳳池(ほうち)の上(ほと)り
朝朝染翰侍君王 朝朝(ちょうちょう) 翰(かん)を染めて君王(くんおう)に侍(じ)せん
⊂訳⊃
銀色の光を放つ燭は 朝まで燃えて都大路は横たわる
春の禁裏の夜明けは まだ明けきらず薄暗い
青琑の門の窓外には しだれ柳が無数の枝を垂れ
鶯は鳴き交わしつつ 宮殿のまわりを飛びまわる
宮中の玉墀を歩めば 腰の剣や佩玉は鳴り
身につけた衣冠には 天子の香炉の香りがこもる
中書省に起用されて 共に皇恩をあびている
されば勤めを怠らず 心からわが君にお仕えしよう
⊂ものがたり⊃ 賈至(かし)は累進して起居舎人・知制誥になりますが、安禄山の乱に遭遇します。天宝十五載(756)六月十三日未明、玄宗皇帝は長安を脱出して蜀に向かい、賈至も皇帝に随って蜀に避難しました。
玄宗と別れた皇太子は七月に霊武(寧夏回族自治区霊武県)で即位し、至徳と改元します。この即位は玄宗の譲位に基づくものではなかったので、皇太子から即位の報せを受けた玄宗は上皇となることを受け入れ、帝位を譲る詔書を霊武に送ります。その詔書の起草を命じられたのが成都で中書舎人になっていた賈至で、玄宗の使者として詔書を霊武に届け、そのまま粛宗に仕えます。
粛宗の軍は至徳二年(757)九月に長安を回復し、十月二十三日に粛宗は都に帰還します。賈至も随行して中書舎人(正五品上)として粛宗に仕えました。掲げた詩は乾元元年(758)春に同僚に贈ったものです。
詩題の「大明宮」(だいめいきゅう)は長安城の東北に接して造られていた政務の場所です。「両省」は唐三省のうち大明宮内にあった中書省と門下省のことで、そのころ王維も岑参(しんじん)も杜甫も朝廷に仕えていました。賈至の詩はこれらの友人に贈ったもので、王維と岑参が唱和しています。
詩はまず首聯の二句で大明宮の早朝の時刻を設定します。当時の官吏は夜明け前に出仕する習わしでした。「銀燭」は白銀のような光を放つ灯火、「紫陌」は都の大路のことです。「禁城」は禁裏、ここでは大明宮のことであり、燭で明るい宮門に立って長安城内を見わたしているのでしょう。大明宮は小高い場所にありました。
頷聯の対句は宮殿の庭のようすです。「青琑」は窓の縁が青く塗られた宮門のことで、そこに植えられている柳は無数の枝を垂れ、鶯が鳴きながら宮殿のまわりを飛びまわっています。「建章」は漢代の宮殿の名ですので、大明宮を雅していうのです。
頚聯の対句は宮殿内を歩く自分の姿でしょう。「玉墀」は玉を敷き詰めた墀で、墀は宮殿の階段を上がったところをいいます。「御炉」は天子の香炉で、御座の大堂に置かれていました。
尾聯の二句は皇帝のご恩に感じて共に忠勤に励もうという結びの言葉です。「鳳池」は鳳凰の池のことですが、中書省の雅称として用いられます。中書舎人は中書省に属していました。「翰を染めて」は筆で字を書くこと、文官として勤めに励む意味です。粛宗のはじめ、諸官は新政の希望に溢れていました。賈至のこの詩が、そのことをよく表しています。
早朝大明宮 早に大明宮に朝し
呈両省僚友 両省の僚友に呈す
銀燭朝薫紫陌長 銀燭(ぎんしょく) 朝(あした)に薫(くん)じて紫陌(しはく)長し
禁城春色暁蒼蒼 禁城の春色(しゅんしょく) 暁(あかつき)に蒼蒼(そうそう)たり
千条弱柳垂青琑 千条の弱柳(じゃくりゅう)は青琑(せいさ)に垂(た)れ
百囀流鶯繞建章 百囀(ひゃくてん)の流鶯(りゅうおう)は建章(けんしょう)を繞(むぐ)る
剣珮声随玉墀歩 剣珮(けんぱい) 声は玉墀(ぎょくち)の歩(ほ)に随い
衣冠身惹御炉香 衣冠(いかん) 身には御炉(ぎょろ)の香(こう)を惹(ひ)けり
共沐恩波鳳池上 共に恩波(おんぱ)に沐(もく)す 鳳池(ほうち)の上(ほと)り
朝朝染翰侍君王 朝朝(ちょうちょう) 翰(かん)を染めて君王(くんおう)に侍(じ)せん
⊂訳⊃
銀色の光を放つ燭は 朝まで燃えて都大路は横たわる
春の禁裏の夜明けは まだ明けきらず薄暗い
青琑の門の窓外には しだれ柳が無数の枝を垂れ
鶯は鳴き交わしつつ 宮殿のまわりを飛びまわる
宮中の玉墀を歩めば 腰の剣や佩玉は鳴り
身につけた衣冠には 天子の香炉の香りがこもる
中書省に起用されて 共に皇恩をあびている
されば勤めを怠らず 心からわが君にお仕えしよう
⊂ものがたり⊃ 賈至(かし)は累進して起居舎人・知制誥になりますが、安禄山の乱に遭遇します。天宝十五載(756)六月十三日未明、玄宗皇帝は長安を脱出して蜀に向かい、賈至も皇帝に随って蜀に避難しました。
玄宗と別れた皇太子は七月に霊武(寧夏回族自治区霊武県)で即位し、至徳と改元します。この即位は玄宗の譲位に基づくものではなかったので、皇太子から即位の報せを受けた玄宗は上皇となることを受け入れ、帝位を譲る詔書を霊武に送ります。その詔書の起草を命じられたのが成都で中書舎人になっていた賈至で、玄宗の使者として詔書を霊武に届け、そのまま粛宗に仕えます。
粛宗の軍は至徳二年(757)九月に長安を回復し、十月二十三日に粛宗は都に帰還します。賈至も随行して中書舎人(正五品上)として粛宗に仕えました。掲げた詩は乾元元年(758)春に同僚に贈ったものです。
詩題の「大明宮」(だいめいきゅう)は長安城の東北に接して造られていた政務の場所です。「両省」は唐三省のうち大明宮内にあった中書省と門下省のことで、そのころ王維も岑参(しんじん)も杜甫も朝廷に仕えていました。賈至の詩はこれらの友人に贈ったもので、王維と岑参が唱和しています。
詩はまず首聯の二句で大明宮の早朝の時刻を設定します。当時の官吏は夜明け前に出仕する習わしでした。「銀燭」は白銀のような光を放つ灯火、「紫陌」は都の大路のことです。「禁城」は禁裏、ここでは大明宮のことであり、燭で明るい宮門に立って長安城内を見わたしているのでしょう。大明宮は小高い場所にありました。
頷聯の対句は宮殿の庭のようすです。「青琑」は窓の縁が青く塗られた宮門のことで、そこに植えられている柳は無数の枝を垂れ、鶯が鳴きながら宮殿のまわりを飛びまわっています。「建章」は漢代の宮殿の名ですので、大明宮を雅していうのです。
頚聯の対句は宮殿内を歩く自分の姿でしょう。「玉墀」は玉を敷き詰めた墀で、墀は宮殿の階段を上がったところをいいます。「御炉」は天子の香炉で、御座の大堂に置かれていました。
尾聯の二句は皇帝のご恩に感じて共に忠勤に励もうという結びの言葉です。「鳳池」は鳳凰の池のことですが、中書省の雅称として用いられます。中書舎人は中書省に属していました。「翰を染めて」は筆で字を書くこと、文官として勤めに励む意味です。粛宗のはじめ、諸官は新政の希望に溢れていました。賈至のこの詩が、そのことをよく表しています。